七日法事(新盆法事)法話①

明日は七日法事3日目。
明日、5分~10分くらいの法話の当番にあたってるので、話す予定の法話の原稿。

———–(原稿)———–
七日法事も今日で3日目です。
本日ここにお参りいただいた方々は、ここ1年で身近な方を亡くされて、
言い表しようもなく、つらく、哀しい思いをされた方ばかりだと思います。
実は私もおととしの平成22年の12月14日に母を亡くしました。昨年が母の新盆でした。
父から「母が亡くなった」と電話をもらった時、私は銚子にいましたので、長野にすぐかけつけました。到着して布団に寝ている母を見た瞬間、涙があふれてきまして、しばらく止まりませんでした。
今考えてみますと、その時流した涙は、かなしさ、さびしさの涙というよりは、
「後悔の涙」だったように思います。

きっと、ここにお参りいただいている皆さまがたも、身近な方との別れを通して、いろんな思いが沸き起こってきた事だと思います。

ここでちょっと考えてみますと、
「皆さまがたに沸き起こってきた思い」
「皆さまがたが自ら沸き上がってきたと感じた思い」は、
言い方を変えますと、実は、
「亡き方から与えられた思い」
「亡き方からさずかった思い」という言い方もできます。

そう考えますと
母の死を目の当たりにして、私にわき上がってきた後悔の思いは、
「母が、私に与えてくれた思いでした。
母がみずからの命をもって、私に気づかせてくれた思いでした。

仏教は、「目覚めの宗教」と言われています。「気づきの宗教」とも言えると思います。
そして仏教が「目覚めの宗教」であるならば、
他の宗派が、修行をして「みずから目覚める、気づく宗派」なのに対し、
浄土真宗は「目覚めさせていただく・気づかせていただく宗派」であります。

親鸞聖人がまとめられたご和讃の中に、

安楽浄土にいたる人 五濁悪世にかえりては
釈迦無尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし
(浄土和讃 注釈版560頁)

というご和讃があります。

「安楽浄土にいたる人」すなわち亡くなった故人が、「五濁悪世」私達の住むこの娑婆世界に還り来て、「釈迦牟尼仏」同様のさとりをひらき、「衆生」私達を際限なく救ってくださる。

という意味です。

(※私のお味わいですが)
亡くなった方は、すでにこの娑婆世界での姿はありません。お骨がお墓の中にあるのみです。
実際の声を聞くことも二度とかないません。
けれども、お浄土に生まれ釈迦牟尼仏と同様さとりをひらき、
そしてこの娑婆世界にかえりきて、他でもない、この私に「声なき声」をかけつづけてくださっています。願いといってもいいかもしれません。

寳満寺の廊下に

聴無声

という三文字の言葉の掛け軸がかかっています。「ちょうむしょう」もしくは「ちょうむせい」でしょうか。
文字通り、意味は、

声無き声を聴く

です。
ここに書いてある「きく」は聴力の「聴」です。門構えの中に耳が入っている「聞」ではありません。辞書をひいてみると、

」というのは、「注意深く、すすんで耳を傾ける
ちなみに
」というのは、「自然と聞こえてくる。

という意味があるそうです。

お盆も間近にせまってきました。新盆中、お忙しいかとは思いますが、
亡き方をしのばれるのと同時に、
「故人が何を思いながら生涯を終えたのか?」
「故人が何を願いながら生涯を終えたのか?」
亡き方の「声なき声」を、耳を傾けて聴きとっていただく時間をとられるのもいいのではないでしょうか。

本日はとおといご縁、どうもありがとうございました。
———–(原稿ここまで)———–

2~3日後、もう一回法話の当番がまわってくる。

2~3日後、もう一回法話をさせていただく機会をいただいたんだ!

どうしよう、まだ何も考えてない・・・(汗)

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