七日法事(新盆法事)法話②

今日でようやく七日法事が終了。
今年は毎日たくさんのご門徒さんがお参りくださいました。
暑い中、早起きをしてお参りくださいましたご門徒さん達には本当に頭が下がります。

七日法事の六日目の昨日、自分が法話をする番。
話す内容が直前までまとまらず・・・。
早起きしてお参りくださったご門徒さんに対し、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。今後への反省をこめて、あえて原稿を後悔公開。

「法話とは?」

浄土真宗の伝道は「仏徳讃嘆」「自信教人信」という言葉につくされます
浄土真宗では、法話を聴聞することが大事にされてきました。
法話とは、阿弥陀如来の救いの法を讃嘆することです。
浄土真宗本願寺派 綜合研究所

「布教師の先生から教わった事」

下記のどの話題にもさわっていない話は法話ではない。

  • 本願
  • 念仏
  • 浄土
  • 成仏

———–(原稿)———–
浄土真宗の教え、親鸞聖人の教えの根本は、「阿弥陀如来の本願」です。本願というのは、わかりやすくいいますと「願い」です。

世の中の多くの宗教では、神様仏様に向かって、願いをかけてゆくことが多いと思います。

ところが、親鸞聖人だけは人間が仏に願いをかけるのではなく、仏に私達は願われているということを説かれています。

一人の人が生きている限り、その人には必ず何らかの願いがかかっていると思います。

その願いがかかっているのを忘れてしまっているのが私達の姿ではないでしょうか?

親子の例がわかりやすいかと思うんですが、みんな親になると子供に向かっていろいろ願いをかけます。健康でありますように、とか幸せになりますように、とか、親は子供に対し、いろいろ願いをかけていきます。

しかし、親は、逆に子供の方からも願われていることを忘れがちではないでしょうか?

私が生きている以上、身近な方からの何らかの願いがかけられているはずです。

 親鸞聖人はご和讃の中に、

煩悩にまなこさへられて 摂取(せっしゅ)の光明みざれども
大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり
(註釈版 595頁)

と詠まれています。

 浄土真宗のご本尊の阿弥陀如来、阿弥陀さまは、
この世の生きとし生けるもの全てを残さずおさめとり救わざるにはおられない お浄土にすくい取らざるにはおられない
という願いをかけられた仏さまです。

そして、阿弥陀さまの願いによって、いのちのふるさとであるお浄土へ帰られた「亡き方」もまた、私達に、同じ願いをかけ続けてくださっています。

でも私達は、自分にとって都合のよい見方でしか考えれない心、煩悩を持っています。その願いがかかっていることに気づくことができません。

でもそんな私だからこそ、阿弥陀さま、そして亡き方は、私達が、早く迷いの現実にきづき、目覚めてくれることを願い続けてくれております。

ここにいるみなさま方が、亡き方を思うように、亡き方もまた、みなさま方を思われています

みなさまがたそれぞれが、充実した人生を送られることが、何より、亡き方の思いに答えることになるはずです。
みなさまがたそれぞれが、しあわせな人生を送られることが何より、亡き方の願いに答えることになるはずです。

親鸞聖人は、それには念仏を申す人生を歩ませていただくことだとおさとしくださっています。
———–(原稿ここまで)———–

あらためて見ると中途半端だし、法話になってない・・・orz
精進あるのみですな・・・。

 

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