高井寺の沿革

(高山村誌刊行会発行『信州高山村誌 第二巻 歴史編』より引用) 

 寺伝によると、井上又太郎の家臣小野沢文五の嫡子・籐三郎宗信が親鸞上人の東国布教のさいに弟子となり出家した。

 この宗信が、雨宮(今の千曲市)に高松寺(こうしょうじ)を建てたのがはじまりという。

 その後水害により須坂市中島町へ移転した。しかしふたたび水害を受けて元亀元年(1570)僧賢超によって高井の字八幡添に移転・再建されたという。このため賢超が中興の祖となっている。

 元和元年(1621)の福島正則検地帳には、堀之内の八幡社近くに「かうしゃう寺」という寺があり、六●五●の屋敷と畑を名請けしている。「かうしゃう寺」とは、高井寺の前身・高松寺のことであろう。

 堀之内屋敷跡は「福島正則の屋敷跡」で、政則がこの館を没したのは寛永元年(1624)である。その跡をついだ四男政利が同一六年(1639)に病死すると、領地や館は幕府に没収された。

 天明五年(1785)僧信道のとき現在値の堀之内館跡に移転した。
高井寺が堀之内館跡に移転した経緯は不明だが、移転したのは幕府が館を没収してから約一五〇年後のことである。

※戦争中の疎開風景