福島正則公・旧館跡に伝わる遺品

高山村誌刊行会発行『信州高山村誌歴史編』 文章:高井寺住職 小野澤憲雄

肖像画

右手に笏(しゃく)を、腰に太刀を手挟み、当時の大名の正服であった「衣冠束帯(いかんそくたい)」の装束に身を包み威風堂々と端座する正則公。
戦国争乱の時代、たぐいまれな頑健な体と、恵まれた強靱な精神力をいかし、足軽・雑兵から広島五〇万石の領主・宰相にまで昇りつめた、百戦錬磨の闘将の面影を、今に伝える一品である。
作者、制作年代等は明らかではないが、対象を子細に観察してみると、烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)等の布帛(ふはく)の透かし、刀のさやの緻密な紋様、さらにまた、目をひきつける鮮やかな色彩など、作者の高度な技量がうかがい知ることができ、美術史的にも評価が高い貴重な資料といえよう。

槍先

柄は朽ちてすでになく、穂先だけが残る。刃先の長さ六〇センチメートル。<br />中央にみぞがあり、”血抜き”のためのものといわれている。
込みには銘があり、「義助(よしすけ)」とある。ちなみに、刀工・「義助」は室町時代から幕末まで、代々つづいてきた刀鍛冶で、初期、三代の作品は、美術・工芸史的にも価値が高く、そのひとつには京都国立博物館に国宝として陳列されているものもある。
正則公遺愛の槍がはたして何代目の作品か定かではないが、逸品であることは想像に難くないところであろう。

仏舎利

『仏舎利縁起』という、由来を記した古文書がある。
慶長五年(一六〇〇)七月、上杉家追討の呼号のもと、下野(しもつけ)小山に参集した豊臣恩顧の武将。そこに「三成挙兵」の一報。逸早く東軍に味方した正則公。感激した家康公から黒の駿馬と「仏舎利」を賜る。
武運長久のおまもりとして家康より正則公へ渡ったお釈迦様のお骨。
二五〇〇年の時空を超えて信州高山に現存するという事実に、歴史の不思議があるようである。

掛け軸(絵伝)

正則公の絵伝ともいうべき作品で、厚地の和紙に岩絵具で色鮮やかに描かれている。
かつては”謎の絵”ともいわれ、その解釈は史家によってわかれるところであった。が、近年、絵にまつわる史料の発見等により、この絵は、在館、足掛け六年にわたった正則公の領内での実績を描いたものと、定着しつつある。
いわば、公の人となり、功績を後世に伝えようとする絵による”メッセージ”である。

下段

門の外に待機する黒の駿馬。周辺には、”馬の口取” ”槍持” ”挟箱持(はさみばこもち)”等の足軽・中間(ちゅうげん)の姿がある。
図右、接客、対面の建物である御広間に、領主政則公が座し、家臣たちと対面している。
濡れ縁にも通常礼服である長裃(かみしも)を着用した二人の侍の姿。これは事にあたっては常に家臣と面談し、迅速、果断にこれを処理実行したという図であろう。
検地、築堤、新田開発など、領内の民生の安定に尽くした事業は数多いが、現場には常に公の巡視する姿があった、という事実を伝えている貴重な資料である。

下段二段目

今まで見解のわかれた絵図である。従来、粗暴な人柄、過酷な支配、という見方が支配的であった。事実は相違する。
右図は領内の治安、風紀の粛清等に意をはらった、という法度(はっと)、掟を描いたものであり、左図は「子母別腹(しぼべつふく)」という、産死、胎亡者の葬送儀礼を描いた図である。
公を追い遣った幕府から見れば、極めて残虐、非道にうつったことであろう。
実は亡き人を丁寧に弔ったことをあらわしている。

中央

嫡男「忠勝」、二十二歳で客死。
公の悲哀落胆を右図の若武者の死と重ね合わせ、何者かに向かっては不明だが、瞋恚(しんに)(※怒り)を描いたのが左図である。
元々、篤信の人であった公。これを機に「高斎」と号し、得度出家した。(着用の九条袈裟は須坂市小河原・大乗寺に残されている。)

上段二段目

高山村、梨本家に残る記録を絵にしたものである。
同家の先祖宣興(のりおき)、公に見いだされ「作事方(さくじがた)」となり、溝を掘り、領内の水行(すいこう)を直し、新田開発をいたし、褒美、十五人扶持。
また大熊村に熊を生け捕り、献じ、備前長光の太刀を賜った。領民感謝の図である。

最上段

正則公、寛永元年(一六二四)七月十三日、六十四歳で病没。翌年春、家臣郎党、帰国。別れを惜しむ姿を描写したものである。

最後に

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出典 高山村誌刊行会発行『信州高山村誌 第二巻 歴史編』