平成28年10月1日から平成29年5月31日まで、京都の本願寺で「伝灯奉告法要」がお勤めされます。※「伝灯奉告法要とは?」
法要初日に、大谷光淳ご門主が「ご親経(ごしんぎょう)」を述べられました。
その全文を掲載します。
注目すべきは、とかく凡夫や他力を口実に、『個々の「生き方」は問わない』といった宗門の風潮をいましめられている点。
「生き方」を問わないのならば、もはや仏教とは呼べないはずです。
煩悩具足の身ではありますが、少しでも煩悩を克服しようという生き方こそ、
正に念仏者の生き方だと(僕も)思います。
世の中にいらない人は一人もいない~阿保のすすめ~
4月1日金曜日、とあるご縁で、ひろさちやさんの講演会と懇親会に参加させていただくことになりまして、板橋区にある真言宗智山派のお寺「南蔵院」様に行ってまいりました。
ひろさちやさんの「阿保のすすめ」という講演です。
ひろさちやさんが、
私たち人間には『法華経(方便品)の「諸法実相(しょほうじっそう)」』つまり「事物の本当のすがた」は見ることができない、という視点から講演されました。
講演の中で、
「世の中に役に立っていない人は一人もいない」
というお話がありました。
例えば「世の中で役に立つ職業」として「医者」を思い浮かべますが、
「医者」が役に立つためには、「病人」がいなければいけません。
「病人」が完全にいなくなれば「医者」という職業は世の中で役に立てないわけです。
同じように「警察」も「犯罪者」がいなければ役にたてません。
そう考えると、(間接的にではありますが)「病人」「犯罪者」も世の中に役に立っているわけです。
とかく私も含めて人間は「役に立つ「役に立たない」という価値観で自分自身や他の人達を評価しがちでありますが、「役に立たない人」がいてはじめて「役に立てる人」が存在できることを考えると、「役に立つ」ということが人間の価値の本質(実相)でないことはあきらかです。
「ご縁」がそろえば「役に立つ人」も次の瞬間には「役に立たない人」になるわが身です。
またその逆もしかりです。
ひろさちやさんが引用された松尾芭蕉の俳句、
草いろいろおのおの花の手柄かな
から「諸法実相」の世界を少し味わえたような気がします。
尊い機会を与えてくださった関係者の皆さま、本当にありがとうございました。
『「私は悟れない」という教え』
流山の高井寺寺務所から車で10分。最近開店したと思われる気になっていた食堂に
ようやく行くことができました。
頼んだ料理は「カキフライ定食 1100円」※写真はありません。
舌鼓をうちながら食べていると、
壁に貼られていた日めくりカレンダーに目がとまりました。
意味深な影つきのトラ人間の絵とともに書かれている
「とらわれの心 捨ててごらん」という言葉・・・ではなく、
小さく書かれている、
『「私は悟れない」という悟り』
という言葉。
思えば浄土真宗を学び始めた頃、
浄土真宗の、「さとりは、この世の縁尽きた時お浄土でいたるもの」という教えを、
物足りなく感じたものです。
でも今ならなんとなくわかります。
さとりに執着しちゃだめなんです。
そして、「さとりに執着しちゃだめ」ということにも執着しちゃだめなんです。
はたまた『さとりに執着しちゃだめ」ということに執着しちゃだめ」ということにも・・・(ry
浄土真宗は『「私は悟れない」という教え』です。
悩まない、苦しまないこころを身につける教えではありません。
一見頼りなさそうな教えですが、
さとることにとらわれず、
「人間」が、「人間として」悩み苦しみながらも、
「人間としての私」をいかなる時でも肯定できる!
「人間としての」瞬間瞬間を堂々と精一杯生き抜く勇気と力が湧いてくる・・・
意外と!?頼もしい教えだと味あわせていただいています。
ちなみに新鮮な肉厚の大きな牡蠣が5個ついていたカキフライ定食も、
美味しく味あわせていただきました。
往相回向 還相回向
昨年の4月に夫をすい臓がんで亡くしました。闘病3か月、55歳でした。
発見時にはすでに末期で、本人も家族もあまりにも急なことで戸惑いの中あっという間に亡くなりました。最期は激痛を緩和させるために麻酔で眠らせた中逝ったのですが、その瞬間は仮眠をとってて気づかず、ちゃんとした会話もできず。
1周忌を迎えるのにその後も後悔することだらけで、引っ越しのどさくさで大事な形見の腕時計を無くしてしまったり、情けない限りです。
未だに夢にも現れず(鈍感で気づかないのかはわかりませんが)、夫は本当に安らかにいるのかどうか、まだ病院や前の住まいに迷っていないでほしいとか、仏壇に手を合わせて祈りますが、法事でお願いしているお坊様は自分の願いを言ってはいけないとおっしゃいます。こういう気持ちはどうしたらよいのでしょう。
供養 女性/ぽんた/神奈川県/50歳代
そろそろお彼岸です。
大切な方を亡くされ、お墓参りにお出かけされる方も多かろうと思います。
(私が)お墓に行って、
(私が)手をあわせて、
(私が)亡き方のことを願う。(思う。)
私達人間はどうしても自分中心のものごとの考え方をします。
ただ少し視点を変えますと、
(大切な亡き方によって)私がお墓に導かれて、
(大切な亡き方によって)手をあわす身とならせていただいている。
とも言えるわけです。そう味わいますと、
(私が)亡き方を願っていたのと同じように、
(大切な亡き方)に願われていた(思われていた)身だった、
と気がつかせていただけます。
仕事柄、お彼岸中には長野には戻れませんが、
彼岸開けにでも長野に帰り、
亡くなった母を思い、お墓参りしてこようと思います。
母は亡くなりましたが、私の中には、
まだまだ母が生きています。
しっかり生きねば。
お坊さんの回答はこちらです。
何故、人間は生きてゆくのか(hasunohaより)
どうして人間は生きてゆかなければいけないんですか?
私は自分が何故、生きているのかわかりません。
24時間365日、自殺することを考えてしまいます。
頭の中は常に「死」です。
もし人間が生きてゆかなければならない意味が子孫を残すためならば、私は、死ぬべき人間です。
私は恋人はいませんし、結婚も考えていません。
働いてもいません。
自殺未遂を何度もしており本当に親不孝者です。
世の中には、本当に生きたい人がいると思います。
その方に、全ての臓器を提供したいです。
そう思っていると、人間が何故生きてゆくのかわかりません。
ご回答お願いします。(女性/くうのり/茨城県/20歳代)
おぼうさんの回答はこちら
優しさとは何でしょうか?(hasunohaより)
親戚に、独り身で要介護の女性がおります。
本来なら施設入所もあり得る状態ですが、本人の強い希望で自宅で一人暮らしをしています。
家族は誰もおらず、自分のことは自分でしか決定出来ない状態の人です。
訪問ヘルパー等の社会支援は受けていますが、現状足りているとは言えない状態です。
彼女の知人達が有りがたい事に手を貸してくださることも多いですし、私も以前は手を貸すこともありました。
彼女に関わる人は皆密かに「彼女が自宅で暮らすにはもっともっと社会支援が必要であるか、或いは、施設入所も考えねばならない」と感じています。
しかし本人は自分がそんな状況だとは認めたくない。
何となくその旨を彼女に話しかけて下さる方もいるのですが、「私は今のままで一人暮らしができる!」の一点張り。
本人は別に、誰かに迷惑を掛けたいとかわざわざ手を借りたいとか思っていないようなのですが、今のままではそうせざるを得ないし、実際そうなっているのです。
その自覚がない。自分でどうにか出来ていると思っているようです。
それならば、と、私は一切手を退くと宣言して、余程必要でない限り関わらないようにしています。
別に、緊急時にSOSを出されても出向かない、と言うわけではなく、ただ単に言われないなら自主的には一切何もしない、という感じです。
けれども、知人の中には「そんなあなたは冷たい」と言う人がいます。
確かに私は彼女をよく思ってはいないし、冷たいかも知れません。
ですが、家族のいない彼女の面倒の一切を引き受ける人はいないし、私も親戚達もその知人達も、自分の都合で手を出したり出せなかったりするのです。
何かあった時に100%駆け付ける人など、彼女のことで責任を持てる人など、一人もいないのです。
「酷い目にあえ!」というのではなく、口で言ってわからないなら体感してもらうしかないと思っています。
これはそんなにも「冷たい」ことでしょうか?
優しくは確かにないでしょうが、不確定な手出しを「優しさ」と本当に言えるのでしょうか?
女性/七海/京都府/20歳代
自分のことが好きになれません。どうしたらいいですか?(hasunohaより)
自分のことが好きになれません。どうしたらいいですか
私はどうしても自分のことが好きになれません。認めていないとかではなく、ただ単純に好きになれません。
それはダメなことなんでしょうか。
自分の嫌なところ、ダメなところばかりに目がいってしまい、すぐ自己嫌悪に陥ってしまいます。
考えすぎたり、心配しすぎたりしてしまったりもしてしまいます。
それらのことがストレスになっているのか、去年から胃炎が治らず、もともと持っていた頭痛もひどくなり体調は悪化するばかりです。
自分のことを好きにはなれなくても、こんな自分とうまく付き合っていくにはどうしたらいいでしょうか。
女性/おばーちゃん会長。/静岡県/10歳代
自分も含めたお坊さんの回答はこちら
どうして生きるのか分かりません。(hasunohaより)
私は小さい頃から、悲しい事や辛い事があると、しみじみ考える事があります。
どうして生きるんだろう、
最近自分なりに答えを探ってみて居るのですが、くだらない理由しか思い浮かびません。
親を心配させない為、とか、周りの人が悲しむから、とか、
別に自殺願望がある訳ではありません。
素朴な疑問です。
親や友人に相談すると、変な勘違いをされてしまいそうで、誰にも相談した事はありません。
今の生活はとても楽しく、満足しています。
でも、何処か他人に気を遣って、他人の為だけに生きているような気がしてなりません。
それで良いのでしょうか。
拙い文で申し訳ありませんが、是非答えていただけると嬉しいです。
生きる意味 女性/うめこ/福岡県/10歳代
自分も含めた僧侶のみなさんの回答はこちら
「生きがいを求めて」(hasunohaより)
初めまして。
生きがいというものを求めています。
大学に入ってから考えつづけていたのは、自分の人生に意味などなく、どうせ死ぬのになぜ勉強し、働くのかという問いです。
ほとんどの宗教では、生きること自体を肯定しているように見えますが、
それは人間が脳内で作った勝手な理屈で、何だかよくわからないけど怖いからそれらしい理屈をつけて、人生に納得しようとしているようにしか見えません。(宗教をバカにして言っているわけではありません、一連の『物語』を信じ、神や仏に帰依することができないんです)
「生きがい」で検索しても出てくるのは、怪しい宗教のサイトや高齢者福祉施設ばかりです。
どうしたらいいんでしょうか?
お坊さんが人生相談等の悩みにQ&A形式で答える「hasunoha(はすのは)」というサイトに私も登録をして、たまに回答させてもらっています。
私も若いころ!?(今も若造ではありますが)相談者の方のような悩み、問いを抱いていました。
このサイトではほかにもいろんな悩みに対し、僧侶の方々が時にはやさしく、時には厳しく、真摯に回答をしてくれているので私も勉強させていただいております。
お坊さんの回答はこちら
平成27年(2015年)10月のことば ~人生そのものの問い~
多忙な日々が続き、更新が滞っていました。6月7月8月9月のことばはお休みさせていただきました・・・^^;
三日坊主ならぬ一ヶ月坊主になりそうでしたので、今月から更新して参ります。