『念仏者の生き方』 

伝灯奉告法要

伝灯奉告法要

平成28年10月1日から平成29年5月31日まで、京都の本願寺で「伝灯奉告法要」がお勤めされます。※「伝灯奉告法要とは?
法要初日に、大谷光淳ご門主が「ご親経(ごしんぎょう)」を述べられました。
その全文を掲載します。
注目すべきは、とかく凡夫や他力を口実に、『個々の「生き方」は問わない』といった宗門の風潮をいましめられている点。
「生き方」を問わないのならば、もはや仏教とは呼べないはずです。
煩悩具足の身ではありますが、少しでも煩悩を克服しようという生き方こそ、
正に念仏者の生き方だと(僕も)思います。

続きを読む

『「私は悟れない」という教え』

流山の高井寺寺務所から車で10分。最近開店したと思われる気になっていた食堂に
ようやく行くことができました。
頼んだ料理は「カキフライ定食 1100円」※写真はありません。
舌鼓をうちながら食べていると、
壁に貼られていた日めくりカレンダーに目がとまりました。

DSC_0255

16日だったかな・・・ 「私は悟れない」という悟り

意味深な影つきのトラ人間の絵とともに書かれている
「とらわれの心 捨ててごらん」という言葉・・・ではなく、
小さく書かれている、

『「私は悟れない」という悟り』

という言葉。

思えば浄土真宗を学び始めた頃、
浄土真宗の、「さとりは、この世の縁尽きた時お浄土でいたるもの」という教えを、
物足りなく感じたものです。

でも今ならなんとなくわかります。

さとりに執着しちゃだめなんです。
そして、「さとりに執着しちゃだめ」ということにも執着しちゃだめなんです。
はたまた『さとりに執着しちゃだめ」ということに執着しちゃだめ」ということにも・・・(ry

浄土真宗は『「私は悟れない」という教え』です。
悩まない、苦しまないこころを身につける教えではありません。

一見頼りなさそうな教えですが、
さとることにとらわれず、
「人間」が、「人間として」悩み苦しみながらも、
「人間としての私」をいかなる時でも肯定できる!
「人間としての」瞬間瞬間を堂々と精一杯生き抜く勇気と力が湧いてくる・・・

意外と!?頼もしい教えだと味あわせていただいています。

ちなみに新鮮な肉厚の大きな牡蠣が5個ついていたカキフライ定食も、
美味しく味あわせていただきました。

DSC_0257

お店の名前は・・・アレですが、料理は本物です!しかもボリュームたっぷり&ごはんおかわり自由!激うまです^^

 

往相回向 還相回向

彼岸花

彼岸花

昨年の4月に夫をすい臓がんで亡くしました。闘病3か月、55歳でした。
発見時にはすでに末期で、本人も家族もあまりにも急なことで戸惑いの中あっという間に亡くなりました。最期は激痛を緩和させるために麻酔で眠らせた中逝ったのですが、その瞬間は仮眠をとってて気づかず、ちゃんとした会話もできず。

1周忌を迎えるのにその後も後悔することだらけで、引っ越しのどさくさで大事な形見の腕時計を無くしてしまったり、情けない限りです。

未だに夢にも現れず(鈍感で気づかないのかはわかりませんが)、夫は本当に安らかにいるのかどうか、まだ病院や前の住まいに迷っていないでほしいとか、仏壇に手を合わせて祈りますが、法事でお願いしているお坊様は自分の願いを言ってはいけないとおっしゃいます。こういう気持ちはどうしたらよいのでしょう。
 
供養 女性/ぽんた/神奈川県/50歳代

そろそろお彼岸です。
大切な方を亡くされ、お墓参りにお出かけされる方も多かろうと思います。

(私が)お墓に行って、
(私が)手をあわせて、
(私が)亡き方のことを願う。(思う。)

私達人間はどうしても自分中心のものごとの考え方をします。

ただ少し視点を変えますと、

(大切な亡き方によって)私がお墓に導かれて、
(大切な亡き方によって)手をあわす身とならせていただいている。

とも言えるわけです。そう味わいますと、

(私が)亡き方を願っていたのと同じように、
(大切な亡き方)に願われていた(思われていた)身だった、

と気がつかせていただけます。

仕事柄、お彼岸中には長野には戻れませんが、
彼岸開けにでも長野に帰り、
亡くなった母を思い、お墓参りしてこようと思います。

母は亡くなりましたが、私の中には、
まだまだ母が生きています。

しっかり生きねば。

お坊さんの回答はこちらです。

何故、人間は生きてゆくのか(hasunohaより)

Jean-Jacques_Rousseau

『生きるとは呼吸することではない。行動することだ。』 ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)

どうして人間は生きてゆかなければいけないんですか?

私は自分が何故、生きているのかわかりません。

24時間365日、自殺することを考えてしまいます。
頭の中は常に「死」です。

もし人間が生きてゆかなければならない意味が子孫を残すためならば、私は、死ぬべき人間です。

私は恋人はいませんし、結婚も考えていません。
働いてもいません。

自殺未遂を何度もしており本当に親不孝者です。

世の中には、本当に生きたい人がいると思います。

その方に、全ての臓器を提供したいです。

そう思っていると、人間が何故生きてゆくのかわかりません。

ご回答お願いします。(女性/くうのり/茨城県/20歳代)


 

おぼうさんの回答はこちら

優しさとは何でしょうか?(hasunohaより)

『弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは、強さの証だ』 (マハトマ・ガンジー)

親戚に、独り身で要介護の女性がおります。
本来なら施設入所もあり得る状態ですが、本人の強い希望で自宅で一人暮らしをしています。
家族は誰もおらず、自分のことは自分でしか決定出来ない状態の人です。

訪問ヘルパー等の社会支援は受けていますが、現状足りているとは言えない状態です。
彼女の知人達が有りがたい事に手を貸してくださることも多いですし、私も以前は手を貸すこともありました。

彼女に関わる人は皆密かに「彼女が自宅で暮らすにはもっともっと社会支援が必要であるか、或いは、施設入所も考えねばならない」と感じています。
しかし本人は自分がそんな状況だとは認めたくない。
何となくその旨を彼女に話しかけて下さる方もいるのですが、「私は今のままで一人暮らしができる!」の一点張り。
本人は別に、誰かに迷惑を掛けたいとかわざわざ手を借りたいとか思っていないようなのですが、今のままではそうせざるを得ないし、実際そうなっているのです。
その自覚がない。自分でどうにか出来ていると思っているようです。

それならば、と、私は一切手を退くと宣言して、余程必要でない限り関わらないようにしています。
別に、緊急時にSOSを出されても出向かない、と言うわけではなく、ただ単に言われないなら自主的には一切何もしない、という感じです。
けれども、知人の中には「そんなあなたは冷たい」と言う人がいます。

確かに私は彼女をよく思ってはいないし、冷たいかも知れません。
ですが、家族のいない彼女の面倒の一切を引き受ける人はいないし、私も親戚達もその知人達も、自分の都合で手を出したり出せなかったりするのです。
何かあった時に100%駆け付ける人など、彼女のことで責任を持てる人など、一人もいないのです。

「酷い目にあえ!」というのではなく、口で言ってわからないなら体感してもらうしかないと思っています。
これはそんなにも「冷たい」ことでしょうか?
優しくは確かにないでしょうが、不確定な手出しを「優しさ」と本当に言えるのでしょうか?

女性/七海/京都府/20歳代

続きを読む

自分のことが好きになれません。どうしたらいいですか?(hasunohaより)

大西心哉さん(にっくん)の詩。素敵です。

自分のことが好きになれません。どうしたらいいですか
私はどうしても自分のことが好きになれません。認めていないとかではなく、ただ単純に好きになれません。
それはダメなことなんでしょうか。

自分の嫌なところ、ダメなところばかりに目がいってしまい、すぐ自己嫌悪に陥ってしまいます。

考えすぎたり、心配しすぎたりしてしまったりもしてしまいます。

それらのことがストレスになっているのか、去年から胃炎が治らず、もともと持っていた頭痛もひどくなり体調は悪化するばかりです。

自分のことを好きにはなれなくても、こんな自分とうまく付き合っていくにはどうしたらいいでしょうか。

 女性/おばーちゃん会長。/静岡県/10歳代

自分も含めたお坊さんの回答はこちら

 

どうして生きるのか分かりません。(hasunohaより)

IMG_6161

私は小さい頃から、悲しい事や辛い事があると、しみじみ考える事があります。
どうして生きるんだろう、
最近自分なりに答えを探ってみて居るのですが、くだらない理由しか思い浮かびません。
親を心配させない為、とか、周りの人が悲しむから、とか、
別に自殺願望がある訳ではありません。
素朴な疑問です。
親や友人に相談すると、変な勘違いをされてしまいそうで、誰にも相談した事はありません。
今の生活はとても楽しく、満足しています。
でも、何処か他人に気を遣って、他人の為だけに生きているような気がしてなりません。
それで良いのでしょうか。
拙い文で申し訳ありませんが、是非答えていただけると嬉しいです。

生きる意味 女性/うめこ/福岡県/10歳代

 

自分も含めた僧侶のみなさんの回答はこちら

 

平成27年(2015年)10月のことば ~人生そのものの問い~

弥陀の誓願は 無明長夜の おおきなる ともしびなり

弥陀の誓願は 無明長夜の おおきなる ともしびなり

多忙な日々が続き、更新が滞っていました。6月7月8月9月のことばはお休みさせていただきました・・・^^;
三日坊主ならぬ一ヶ月坊主になりそうでしたので、今月から更新して参ります。

続きを読む

死は最後の贈り物

久しぶりの投稿です。紆余曲折ありまして、たまに東京、千葉でお通夜・ご葬儀に出仕させて頂いております。
最近よく、お通夜の法話の際に、平野恵子さんの子供達に宛てられたメッセージを朗読しています。

平野恵子さんは、岐阜県高山市の浄土真宗の寺の坊守(住職の奥様)でした。

彼女が39歳の時に癌(ガン)の告知を受け、41歳の時に往生されました。

癌の告知を受けた時、平野恵子さんには三人のお子さんがいましたが、そのお子さん達へ宛てた手紙形式のメッセージです。

続きを読む