お釈迦さまが生きていた頃はもちろん出家信者と在家信者がいたはずです。
「対機説法」と言われるように、
出家信者に対してはふさわしい修行法を説き
在家信者に対してはふさわしい実践法を説いていたはずです。
お釈迦さまが亡くなると、
出家信者は自分達だけで教団をつくり、出家信者に対して説かれた教えだけをまとめて教典をつくります。
だから初期仏教教典には、在家信者に対する修行法、実践法が書かれていません。
後に、
若者中心の進取派からなる「大衆部」と
長老中心の保守派からなる「上座部」とに分裂がおきます。(根本分裂)
その後、最終的に二十くらいの部派にわかれます。
この流れをくむのが現在の「上座部仏教」です。
一方、在家信者達は、
お釈迦さまの遺骨を祀(まつ)った「ストゥーパ(仏塔)」を作り礼拝しました。
ちなみに、お釈迦さまの遺骨を荼毘(だび)に付したときできた遺骨を
「舎利(しゃり)」と言います。
※寿司屋の「シャリ」の語源です。
在家信者達の仏塔信仰がさかんになる中、
出家信者たちの作る教団は、学問仏教、難解を極める哲学的な方向になっていきました。
そして、在家信者達の中からお釈迦様の根本精神に立ち返ろうという大乗仏教運動が起こっていきます。
その大乗仏教の修行法・修行論が
「波羅蜜(はらみつ)」と呼ばれています。
「迷いの此岸(しがん)から悟りの彼岸(ひがん)に渡るための修行法」
という意味です。
この修行法が六種類あるので、
「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と呼ばれています。
- 布施波羅蜜(ふせはらみつ)・・・施しの修行 →関連リンク
- 持戒波羅蜜(じかいはらみつ)・・・戒を守る修行 →関連リンク
- 忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)・・・他人から受ける迷惑を堪え忍ぶ修行 →関連リンク
- 精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)・・・努力の修行
- 禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)・・・精神統一をする修行
- 智慧波羅蜜(ちえはらみつ)・・・智慧をみがく修行
※この六波羅蜜を実践する者を「菩薩(ぼさつ)」と呼んでいます。
※十波羅蜜・・・「方便」「願」「力」「智」を加えたもの。
そして重要なことが、
この修行そのものに執着してはならないということです。
これが難しい・・・というか僕は未だによくわかりません。
浄土真宗では、「六波羅蜜」は、その真似ごとのようなものはできても、
「執着しない心」「はからいの心」を持たず行じる”真の”六波羅蜜の実践は、不可能だ、
という立場です。
「六波羅蜜」は「仏」になるための修行法です。
ちなみに上座部で目指すのは、「仏」ではなく「阿羅漢(あらかん)」です。
※阿羅漢・・・修行者が到達できる最高の境地
大乗仏教では、
仏になるという「目的」よりも、その「過程」の重要性、つまり
「仏」を目指して人生を歩み続けていこう!
ということの重要性が説かれているように思います。
「仏」という、人間が到底到達できそうもない境地をともに目指す者同士には、
到達出来た者、到達出来ない者、
エリートとエリートじゃない者、
といった、人に差をつける考えは生まれてきません。
ともに「仏」にはなれない者同士なんですから。
※現実には人と差をつけてしまいたがるのが人間なんでしょうが・・・。
そこに出家者、在家者の区別はありません。
人間として、仏を目指し、仏の智慧を学び、人間として成長していくこと、
それが、日本の仏教が説く、仏教徒の歩む道だと思う、今日この頃です。