煩悩って悪いもの?※若干追記

車のエンジン

煩悩は人間の動力源!と同時に・・・

仏教では煩悩は我執(がしゅう)から生じると説かれます。

我執(がしゅう)とは、簡単に言うと、
「自分中心の考え、それに基づく物事への執着」です。

ちなみに煩悩とは「さとりを邪魔する欲望」のことで、煩悩の根源を、
よく「三毒」なんて言い方をします。

  1. 貪欲(とんよく)・・・むさぼりの心(必要以上に求める心)
  2. 瞋恚(しんに)・・・怒りの心
  3. 愚痴(ぐち)・・・真理に対する無知の心(十二因縁の”無明”)

仏教の理想は、「無執着(むしゅうじゃく)」すなわち、「何ごとにも執着しないこと」
と言えると思います。 続きを読む

大乗仏教のお釈迦さまは「人間」じゃない。

上座部仏教のお釈迦さまは、”人間としての”お釈迦さまです。
「仏」は、お釈迦さま以外あり得ない、と尊敬を込めて、
現在に「仏」が存在することを否定した教えです。

それに対して、
大乗仏教では、現在にも無数の「仏」が存在している

と説いています。
そして、大乗仏教のお釈迦さまは、神通力を持ち、空を飛ぶ、超人、スーパーマンとして教典に表現されています。もはや人間ではありません。(笑)

実は僕も仏教を学び始めた頃、教典を勉強しはじめた頃、
最初に、この点にひっかかりました。
教典では、お釈迦さまが空を飛んでいるではありませんか!
本当に、大乗仏教を信じて良いのか?と。(笑)

 

大乗仏教では三身(さんしん)と言って、仏のタイプを3つに分けています。

1、法身仏(ほっしんぶつ)

  • 無始・無終の存在の仏です。「真理そのもの(真如)」です。
    真理は見ることも言葉にすることも出来ません。(不可思議・不可説)
    お釈迦さまが発見する、しないに関わらず、「真理」自体は存在していました。

    • 毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ) → 華厳宗 「奈良の大仏」
    • 大日如来(だいにちにょらい) → 真言宗
      この2つの仏さまは同じ「真理」を表しています。
      真理が2つある訳はないので、宗派で名前が違うだけです。

2、報身仏(ほうじんぶつ)

  • 有始・無終の存在の仏です。大乗仏教では無数に存在します。
    「報」とは報酬の意味で、立てた「願」と修した「行」に報(むく)いて、
    その結果として「仏(ほとけ)」になられた「仏」です。
    僕は、不可思議・不可説である「法身仏」が人間にわかるよう「方便」として
    出現した「仏」と解釈しています。

    • 阿弥陀如来(あみだにょらい) → 西方極楽世界
    • 薬師如来(やくしにょらい) → 浄瑠璃世界

3、応身仏(おうじんぶつ)

  • 有始・有終の存在の仏です。法身仏が、私たち人間を救うために、
    人間としての体をもってこの人間世界に出られた仏(ほとけ)。
    歴史上インドに生まれたお釈迦さまのことです。

    • 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)

 

大乗仏教で言う「仏(ほとけ)」とは、「法身仏・報身仏・応身仏」です。

言い換えると、
大乗仏教では、

お釈迦さまは、「法身仏(ほっしんぶつ)」の分身として、
人間の姿で真理を説かれた「応身仏(おうじんぶつ)」と考えます。

お釈迦さまは、「仏(ほとけ)」であり、

お釈迦さまは、「法身仏・報身仏・応身仏」です。

つまり、大乗仏教では、お釈迦さまは人間ではないんです。

大乗仏教の「仏(ほとけ)」とは、
「真理」であり、
「如来」であり、
「お釈迦さま」です。

実は、本願寺22代の、大谷光瑞ご門主の時代(明治時代くらい)には、
お釈迦さまが、歴史的人物であるかが、疑われていたみたいです。
でも日本では、大乗仏教の上記の様な考えから、歴史上の人物であろうが、無かろうが、
あまり問題なかったように思います。
それが近代日本に、学問として、様々な初期仏教教典が入ってきて、
「人間のお釈迦さま」という見方が圧倒的になりました。
最初に書いた通り、「人間のお釈迦さま」という認識で、
大乗仏教の経典は、とても信じられるはずがありません。

大乗仏教の経典は、物語形式になっているものが多いです。
文字を文字どおり読むのではなくて、その物語が何をうったえてるのか?何が言いたいのか?という教典の「こころ」を読み取るのが教典を学ぶということだと思います。

信仰は学問であってはいけないな、理屈じゃないな・・・と思う反面、
勉強したての僕がそうだったように、大乗仏教(日本仏教)ばなれが進むのも、
なんとなくわかりそうな気がしちゃう、今日この頃だったりします・・・。

 

六波羅蜜(ろくはらみつ)?

お釈迦さまが生きていた頃はもちろん出家信者と在家信者がいたはずです。
「対機説法」と言われるように、
出家信者に対してはふさわしい修行法を説き
在家信者に対してはふさわしい実践法を説いていたはずです。

お釈迦さまが亡くなると、

出家信者は自分達だけで教団をつくり、出家信者に対して説かれた教えだけをまとめて教典をつくります。
だから初期仏教教典には、在家信者に対する修行法、実践法が書かれていません。

後に、
若者中心の進取派からなる「大衆部」と
長老中心の保守派からなる「上座部」とに分裂がおきます。(根本分裂)
その後、最終的に二十くらいの部派にわかれます。

この流れをくむのが現在の「上座部仏教」です。

一方、在家信者達は、
お釈迦さまの遺骨を祀(まつ)った「ストゥーパ(仏塔)」を作り礼拝しました。

ちなみに、お釈迦さまの遺骨を荼毘(だび)に付したときできた遺骨を
「舎利(しゃり)」と言います。
※寿司屋の「シャリ」の語源です。

在家信者達の仏塔信仰がさかんになる中、
出家信者たちの作る教団は、学問仏教、難解を極める哲学的な方向になっていきました。

そして、在家信者達の中からお釈迦様の根本精神に立ち返ろうという大乗仏教運動が起こっていきます。

その大乗仏教の修行法・修行論
「波羅蜜(はらみつ)」と呼ばれています。
「迷いの此岸(しがん)から悟りの彼岸(ひがん)に渡るための修行法」
という意味です。

この修行法が六種類あるので、
「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と呼ばれています。

  1. 布施波羅蜜(ふせはらみつ)・・・施しの修行 →関連リンク
  2. 持戒波羅蜜(じかいはらみつ)・・・戒を守る修行 →関連リンク
  3. 忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)・・・他人から受ける迷惑を堪え忍ぶ修行 →関連リンク
  4. 精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)・・・努力の修行
  5. 禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)・・・精神統一をする修行
  6. 智慧波羅蜜(ちえはらみつ)・・・智慧をみがく修行

※この六波羅蜜を実践する者を「菩薩(ぼさつ)」と呼んでいます。
※十波羅蜜・・・「方便」「願」「力」「智」を加えたもの。

そして重要なことが、

この修行そのものに執着してはならないということです。

これが難しい・・・というか僕は未だによくわかりません。

浄土真宗では、「六波羅蜜」は、その真似ごとのようなものはできても、
「執着しない心」「はからいの心」を持たず行じる”真の”六波羅蜜の実践は、不可能だ、
という立場です。

「六波羅蜜」は「仏」になるための修行法です。

ちなみに上座部で目指すのは、「仏」ではなく「阿羅漢(あらかん)」です。
※阿羅漢・・・修行者が到達できる最高の境地

大乗仏教では、
仏になるという「目的」よりも、その「過程」の重要性、つまり

「仏」を目指して人生を歩み続けていこう!

ということの重要性が説かれているように思います。

「仏」という、人間が到底到達できそうもない境地をともに目指す者同士には、
到達出来た者、到達出来ない者、
エリートとエリートじゃない者、
といった、人に差をつける考えは生まれてきません。
ともに「仏」にはなれない者同士なんですから。
※現実には人と差をつけてしまいたがるのが人間なんでしょうが・・・。
そこに出家者、在家者の区別はありません。

人間として、仏を目指し、仏の智慧を学び、人間として成長していくこと、

それが、日本の仏教が説く、仏教徒の歩む道だと思う、今日この頃です。

にんにく?

にんにく

食べるときは、よく状況を判断してから。

お盆前に、月忌参りでお伺いしたお宅のおばあちゃんと野良ネコの話で盛り上がったことがありました。ガリガリにやせた子ネコが庭に迷い込んできたので、えさをあげてたら、なついてしまったそうです。

9月になり、先日またそのおばあちゃんの家に行き、
「子ネコまだ来てますか?」とあいさつがてら声をかけたら、
さびしそうな顔をして、ことのいきさつを話してくれました。

そのおばあちゃんによると

しばらく子ネコにえさをあげてたらしいんですが、
近所から、野良ネコにえさをやるなっ!ていうクレームがきたそうです。
「よかれと思ってえさをやってたけど、まさか、よそさまに迷惑をかけてるとは全く思わなかった。良い勉強になった。」

とのことでした。

私たちは普段意識せずとも必ず他人に迷惑をかけながら生きています。
私が「~の試験に受かった」ということは、
どこかの誰かが私のせいで「試験に落ちた」ということでもあります。

私達は生きているだけで、他人に迷惑をかけています。
だから、私も他人から受ける迷惑を堪え忍びましょう

ということが仏教でいう忍辱(にんにく)です。

かといって全ての迷惑を堪え忍ぶ、泣き寝入りする、ということでは無いように思います。
何を我慢すべきで、何を我慢すべきではないか、
その判断にあたっては、仏教の「智慧(ちえ)」のみせどころだと思います。
※「智慧」→物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。「知恵」→Wikipedia

その後、おばあちゃんは子ネコにえさをあげてないそうです。
ただ、
「またガリガリにやせた状態で来たら、えさあげちゃうかもね、
見殺しには出来ないよね。」
と笑みをうかべながら言ってました。

 

「私は悪いこと何もしてないのに」
「私は正しいことをしてるのに」

と思うこころに、

「他人から受ける迷惑を我慢できるこころ」

はありません。

 

ふとこんな言葉が頭をよぎりました。

善人ばかりの家は争いが絶えない

善人ばかりの世の中になりつつありそうで、ちょっと怖くなったりする、今日この頃だったりします。もちろん、善人だと思ってしまう僕自身も含めてです。

 

※野良猫へのえさやりは全国的に(都市部?)問題になっているみたいです。
えさやり肯定派と否定派の方々がいて、どうやら、否定派が優勢?みたいです。
関連リンク
※食べる「ニンニク」は仏教のこの「忍辱(にんにく)」が語源だそうです。

お仏壇を買ったことはおどろきなり

お釈迦様がさとられたのが「縁起の法」です。
「因縁正起(いんねんしょうき)」とも言われています。

私がとった行動(果)には必ずその原因(因)と条件(縁)があります。
同じように、
私が感じた思い(果)にも必ずその原因(因)と条件(縁)があります。
そして、
私がとった行動・感じた思い(果)は同時に次の行動・思いの原因(因)になります。

以前、新しくお仏壇を購入したお宅に「入仏式(にゅうぶつしき)」でお伺いしたことがありました。

お仏壇を新しく買ったとき、お坊さんを呼ぶことが多いかと思います。そのことを一般的に、
「魂(たましい)入れ」なんて言い方をしますが、
浄土真宗では、お仏壇にご本尊(阿弥陀さま)をお迎えするという意味で
入仏(にゅうぶつ)」といいます。
「入仏式」とはあらたに仏さまをお迎えするお祝いの法要という扱いです。

今までこのお宅ではお仏壇がなく、最近、おばあちゃんが亡くなったので、それを機にお仏壇を買ったそうです。

ここで少し考えてみますと、

そのお宅の方が「お仏壇を買ったという行為」を結果(果)、と考えますと、
おおまかに言えば、お仏壇を買った理由(因)は、「おばあちゃんの死」でしょう。
ただそれだけではお仏壇を買うにはいたりません。
条件(縁)が必要です。

例えば、わかりやすいところで、

  • お仏壇が家に無いこと。
  • お仏壇を買うだけのお金があること。
  • お仏壇を置く場所があること。

という条件が必要です。そして何よりも必要なのは、

  • 「お仏壇が必要だ」という自らの思い

です。
お仏壇を買うだけのお金があっても、置く場所があっても、
「仏壇なんかいらねぇ」と買わない人はたくさんいるでしょうから。
これ以外にもたくさんの条件が必要になってくるはずです。

そのたくさんの条件がそろったとき、はじめてお仏壇を購入するという行為にいたります。
浄土真宗では、そのたくさんの条件を「ご縁」と言っています。

そして何よりも必要な条件である「お仏壇が必要だという自らの思い」は、結果(果)でもあります。
これまた「たくさんの理由とご縁」により、そう思える自分になっていたという結果です。

つまり、「お仏壇が必要だ」と思うことのできる私に、たくさんの理由とご縁により、
お育ていただいていた、ということです。

 

こう考えますと、

「私がお仏壇を買った」
(自発・能動的な考え方)

ということを言い換えれば、

「私がお仏壇を(亡くなった方を含め色々なご縁により)買わされていた」
もうちょっとましな言い方をすると、(笑)
「私がお仏壇を(亡くなった方を含め色々なご縁により)買わせていただいた」
(受け身・受動的な考え方)

とも言えるわけです。

 

このお宅の方からすれば、
「おばあちゃんが亡くなったから、お仏壇を買った」「当たり前のこと」
だと思っているんじゃないかと思います。

でも実は、当たり前のことじゃないんです。

「お仏壇を買った」ということは、無数にある「原因」そして「条件」がそろわないと決してあり得ない、奇跡とも言える尊い結果なんです。

最後に、どこかで見た、忘れられない言葉を。

「死は必然なり、生はおどろきなり」
(作者不明)

お仏壇はこころの鏡

お仏壇はこころの鏡

4、お浄土までの距離は?

「十京光年」!!

大阪工業大元教授の山内俊平氏が計算したお浄土までの実際の距離だそうです。

「京(けい)」は「兆」の上の単位。つまり1016。(10の16乗)
光が真空中を一年間かけて進む距離が九兆四千六百キロメートル。(一光年)

つまりお浄土まで行くのに、光の速度で進んだとして、
一億年の十億倍かかる距離だそうです・・・。

参考)http://ameblo.jp/seapock/entry-11044290633.html

お浄土の距離は、
大経には、
法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ。
(『大経(仏説無量寿経)』 註釈版28頁)

そして、阿弥陀経には、
これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ
(『阿弥陀経』 註釈版121頁)

と説かれており、お浄土は「十万億の仏土」過ぎた非常に遠い遠い世界と表現されています。

一方、観経では、
阿弥陀仏、此(ここ)を去ること遠からず
(『観経(仏説観無量寿経)』 註釈版91頁)

と示され、阿弥陀さまはそう遠いところには存在されていない、つまり身近なところにおられる、とあります。つまり阿弥陀さまがおられるお浄土も身近なところにある、ということになります。

お浄土は遠い遠いはるか彼方の存在なのか?
お浄土は意外と身近な存在なのか?

 

「こころ」のあり方に問題があるような気がする今日この頃です。
(終わり)

  1. 浄土は苦しみの無い世界?
  2. そもそも浄土ってあるの?
  3. 賢者?愚者?
  4. お浄土までの距離は? ←このページ

3、賢者?愚者?

浄土真宗の教えは「他力」です。つまり「自力無功」。
これは「往生のために自らの力は何ら役にたたないこと」を意味します。

「他力」の教えは、親鸞聖人が到達した結果であり結論ですが、そこに至るまでの比叡山の20年間の修行は「自力」でした。

親鸞聖人の考える「自力」とはどういうものだったのか?
中央仏教学院長「白川晴顕(しらかわはるあき)」先生が書かれた『親鸞聖人と超常識の教え(永田文昌堂)』から引用させていただきます。

(略)一般的に自力といえば、往生のために自らの力を励み努力することのように思われがちですが、決してそうではありません。
(略)
自力とはわが身や励んで得た善根功徳をあてにし、たよりとして、それを往生のために役立たせようと「はからうこころであることになります。

(略)
自力と他力は対立するものではなく、他力は自力を包摂(ほうせつ)する立場にあり、他力(阿弥陀如来の大悲)のはたらく場が自力の世界であることを示すものです
二十年間の比叡山時代は、聖人にとって真実が得られないという苦悶の中で、挫折や絶望を抱かずにはおられなかった世界です。
そして自らをあてにして「はからいのこころ」をもって励む自力の限界を身をもって知らされた世界であったともいえます。
このことと、私たち人生の中で思いがけない不幸に出逢ったり大きな壁にぶち当たったりして、さまざまな苦難を体験し、それによって挫折や絶望を味わうこととは異質なものではないように思えます。

普段私たちは、自分の知識や理性、常識に照らして、ものごとの価値判断をしていきます。
要は、自分の考える事は正しいと、自分をあてにして生きているわけです。

仏教では、その「自分の考える事は正しいと思ってしまう自分のこころ」を煩悩と言っています。仏教でさとりをひらくという事は、「ものごとをありのままにみること」、
浄土真宗的に言えば、「阿弥陀さまと同じものの見方」ができるようになることです。

親鸞聖人は、私たちに「阿弥陀さまと同じものの見方をしろ」とは一言も言われておりません。ただ、「阿弥陀さまと同じものの見方ができない」愚かな私であると気付かされることの大切さを教えてくださっています。自分の知識、理性、常識がいかにあてにならないか、気付くことの大切さを教えてくださっています。

お釈迦様は、自らの愚かさを嘆いて教団を去ろうとしたお弟子(周利槃特)に、こう言われたそうです。※後にこのお弟子さんは”さとり”をひらかれたそうです。

自分の愚かさを知る者こそが、智慧あるものなんだ。
自分の愚かさに目を向けず、自分が賢いと思う者こそを愚者と言う。
おまえは自分が愚かだと、すでに知っているじゃないか。

そして親鸞聖人は、晩年(88歳頃)、『正像末和讃』にこう書き足されております。

よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを
善悪の字しりがほは おおそらごとのかたちなり
『正像末和讃 自然法爾章 注釈版622頁』
(意訳)
物事に善悪の価値判断ができない人は、真実のこころを持ち、
あたかも善悪を知っているかのような素振りをする人は、嘘・偽りの姿にすぎない

私が生きていく上でせざるを得ない価値判断の基準は、煩悩にまみれた私自身です。
私自身にとって都合の良い見方で判断しているにすぎません。

阿弥陀さまの真実のものの見方が知らされて行く中に、それまで正しいと思っていた物の見方の間違いに気付かされていく。
そういう「気付き」の積みかさねの日暮らしの中で、「信心」、すなわち

自分の中に往生するために役立つもの、あてになるものが何一つないと知らされ(機)
また阿弥陀さまの本願のはたらきにすべてをまかせるしかない。(法)
(二種深信)

という”こころ”がいただけるんじゃないかな、と、そんな風に思う今日この頃です・・・。

最後に白川先生のご法話を紹介させていただきます。
(続く)

  1. 浄土は苦しみの無い世界?
  2. そもそも浄土ってあるの?
  3. 賢者?愚者? ←このページ
  4. お浄土までの距離は?

2、そもそも浄土ってあるの?

「お浄土」は私たちが臨終を迎え、生まれて往く世界であるとともに、
そこには阿弥陀如来がおられ、私たちを救う活動をされている、その活動の源(みなもと)でもあるという二つの意味があります。
浄土真宗では「死後の世界」を「お浄土」と表現しています。

先日、宝満寺の常例法話でお話し下さった西原先生は、
一般的な仏教は、”因”から”果”を説く。
しかし浄土教はまず”果”があり、そこから”因”を説く

という言い方をされていました。

一般的には、何かをしたら(因)それに応じて結果がある(果)、という考え方をします。
でも浄土真宗では最初に「果」である「死後の世界」つまり「お浄土」を示します。

浄土真宗では、かなりおおざっぱですが、

阿弥陀如来は生きとし生けるものすべてを、間違いなく浄土に救い摂る」という願いを、わたしの為にたててくれている。

お浄土は間違いなくあるんだから死んだ後のことはつべこべ悩まずに、阿弥陀如来におまかせしとけ!

死んだ後のことを考えなくてもいいし、死んだ後のことを考えるのは無意味だよ!
生きている今を精一杯生きようよ!

ということ、つまり、

「死んでからのことを考えるのではなく、私が生きているたった今、この瞬間を、どのように生きるか・過ごすか、そして私自身が死ぬまでの時間をどのように生きるか・過ごすか、のほうがよっぽど重要だし、意味があることですよ。」

と説いているんじゃないかと思うんです。

死後の世界(後生)のことに悩む必要が無ければ、生きている間(今生)のことに集中できる。
後は自分の人生を歩めばいい。やりたいこと、やるべきことをやればいい。
もちろん、阿弥陀さまへの感謝の気持ちは忘れずに。(称名報恩)
えっやりたいこと、やるべきことがわからない?
阿弥陀さまは死んだ後の面倒は見てくれますが、生きている間の面倒は見てくれません。
それこそ間違った意味での「他力本願」になっちゃいます。
自分の人生なんですから、自分でなんとかするしかありません。
ただ進むべき方向はおのずと確定していると思います。
どんな仕事をしてようが、裕福だろうが、貧乏だろうが、
仏さまの大地にしっかりと根ざした確固たるよりどころを得て歩むお念仏の人生です。
そして、どんな人生を送ろうが、成功しようが失敗しようが、ぼけて死のうが、のたれ死のうが、死んだ後は必ず!お浄土に救い摂ってくれます。救い摂らざるにはいられない仏なんです。

 

問い)「お浄土ってあるんですか?」
この質問は
問い)「死後の世界ってあるんですか?」
と同義です。

あるご住職はこう答えたそうです。
わしゃ往ったことないからそんなこと知らん!
きっとこのご住職にとって死んだらお浄土に往くのが当たり前だったんでしょう。
「お浄土」すなわち「死後の世界」、「ある」とも「ない」とも答えない。
考えても無意味な、考えても永遠に答えの出せない死んだ後のことなんてどうでもよかったんでしょう。
親鸞聖人のおしえを知識・学問(教学)としてではなく、自らの人生に活かされ実践されているこのご住職を、僕は、信心獲得されたすばらしい真の念仏者だと思います。

僕はこの問いに、このご住職のように答えられるか、いまだ自信はありません・・・。
きっといろいろ理屈をこねちゃいそうな気がする僕がいます・・・。
(続く)

  1. 浄土は苦しみの無い世界?
  2. そもそも浄土ってあるの? ←このページ
  3. 賢者?愚者?
  4. お浄土までの距離は?

1、浄土は苦しみの無い世界?

お浄土はよく、金とか銀とか瑠璃(るり=ラピスラズリ)などの宝石で荘厳され、
「大経(仏説無量寿経)」では「安楽」、
「阿弥陀経」では「極楽」すなわち「楽しみ極まりない世界」という書き方がされています。

現在、中央仏教学院長であります「白川晴顕(しらかわはるあき)」先生が書かれた
親鸞聖人と超常識の教え(永田文昌堂)』という本の中で、白川先生の師である「村上速水(むらかみそくすい)」先生が、お浄土について述べられたことばが書かれています。

お経の上には、浄土のことを「安楽」とか「極楽」と表現されている。しかし、その本来の性質は、決して私たちが考えるような安らかで楽しみが多いというような性質ではない。
「安楽」「極楽」に対して言葉を当てはめれば、「非苦非楽(ひくひらく)」、すなわち苦しみに非(あら)ず、楽しみに非(あら)ずという性質である。
したがって、このような浄土は、私たちが心で思うこともできないために不可思議であり、
心で思うことができないということは、それを口で説くこともできないために不可説である。
これが本来の浄土の性質である。
しかし、そういう浄土であれば、私たちにその存在を知ってもらえない。
そこで、本来不可説なものを私たち凡夫の感情に合わせて表現されているのがお経の説示である。

そして白川先生はこう書かれています。※若干略しています。

私たちが生きているときに、浄土の存在を考えていく場合、(略)
その時私たちはどうしても、私自身のものの見方で浄土を考えようとします。
しかし、本来の浄土は決して私たちの欲望の延長上に存在する世界ではない・・・(略)

白川先生のおっしゃるとおり、
私自身が生きている時に、「お浄土」の存在を確かめておくこと!
とても大切だと思います。
「死ねば(お浄土に往けば)楽になれるんですか・・・?」
「死ねば苦しみのないお浄土に往けるのですか・・・?」
という安易な考えの方に応えるためにも。
(続く)

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