「お浄土」は私たちが臨終を迎え、生まれて往く世界であるとともに、
そこには阿弥陀如来がおられ、私たちを救う活動をされている、その活動の源(みなもと)でもあるという二つの意味があります。
浄土真宗では「死後の世界」を「お浄土」と表現しています。
先日、宝満寺の常例法話でお話し下さった西原先生は、
「一般的な仏教は、”因”から”果”を説く。
しかし浄土教はまず”果”があり、そこから”因”を説く」
という言い方をされていました。
一般的には、何かをしたら(因)それに応じて結果がある(果)、という考え方をします。
でも浄土真宗では最初に「果」である「死後の世界」つまり「お浄土」を示します。
浄土真宗では、かなりおおざっぱですが、
「阿弥陀如来は生きとし生けるものすべてを、間違いなく浄土に救い摂る」という願いを、わたしの為にたててくれている。
↓
「お浄土は間違いなくあるんだから死んだ後のことはつべこべ悩まずに、阿弥陀如来におまかせしとけ!」
↓
「死んだ後のことを考えなくてもいいし、死んだ後のことを考えるのは無意味だよ!
生きている今を精一杯生きようよ!」
ということ、つまり、
「死んでからのことを考えるのではなく、私が生きているたった今、この瞬間を、どのように生きるか・過ごすか、そして私自身が死ぬまでの時間をどのように生きるか・過ごすか、のほうがよっぽど重要だし、意味があることですよ。」
と説いているんじゃないかと思うんです。
死後の世界(後生)のことに悩む必要が無ければ、生きている間(今生)のことに集中できる。
後は自分の人生を歩めばいい。やりたいこと、やるべきことをやればいい。
もちろん、阿弥陀さまへの感謝の気持ちは忘れずに。(称名報恩)
えっやりたいこと、やるべきことがわからない?
阿弥陀さまは死んだ後の面倒は見てくれますが、生きている間の面倒は見てくれません。
それこそ間違った意味での「他力本願」になっちゃいます。
自分の人生なんですから、自分でなんとかするしかありません。
ただ進むべき方向はおのずと確定していると思います。
どんな仕事をしてようが、裕福だろうが、貧乏だろうが、
仏さまの大地にしっかりと根ざした確固たるよりどころを得て歩むお念仏の人生です。
そして、どんな人生を送ろうが、成功しようが失敗しようが、ぼけて死のうが、のたれ死のうが、死んだ後は必ず!お浄土に救い摂ってくれます。救い摂らざるにはいられない仏なんです。
問い)「お浄土ってあるんですか?」
この質問は
問い)「死後の世界ってあるんですか?」
と同義です。
あるご住職はこう答えたそうです。
「わしゃ往ったことないからそんなこと知らん!」
きっとこのご住職にとって死んだらお浄土に往くのが当たり前だったんでしょう。
「お浄土」すなわち「死後の世界」、「ある」とも「ない」とも答えない。
考えても無意味な、考えても永遠に答えの出せない死んだ後のことなんてどうでもよかったんでしょう。
親鸞聖人のおしえを知識・学問(教学)としてではなく、自らの人生に活かされ実践されているこのご住職を、僕は、信心獲得されたすばらしい真の念仏者だと思います。
僕はこの問いに、このご住職のように答えられるか、いまだ自信はありません・・・。
きっといろいろ理屈をこねちゃいそうな気がする僕がいます・・・。
(続く)
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