煩悩って悪いもの?※若干追記

車のエンジン

煩悩は人間の動力源!と同時に・・・

仏教では煩悩は我執(がしゅう)から生じると説かれます。

我執(がしゅう)とは、簡単に言うと、
「自分中心の考え、それに基づく物事への執着」です。

ちなみに煩悩とは「さとりを邪魔する欲望」のことで、煩悩の根源を、
よく「三毒」なんて言い方をします。

  1. 貪欲(とんよく)・・・むさぼりの心(必要以上に求める心)
  2. 瞋恚(しんに)・・・怒りの心
  3. 愚痴(ぐち)・・・真理に対する無知の心(十二因縁の”無明”)

仏教の理想は、「無執着(むしゅうじゃく)」すなわち、「何ごとにも執着しないこと」
と言えると思います。 続きを読む

人間のする最も美しい姿?

西本願寺公式!?ご本尊「菊」バージョン

西本願寺公式省スペースタイプご本尊「きく」

先日、西本願寺公認の省スペースタイプの”ご本尊”を申し込みされたご門徒さん宅に、
入仏式も兼ねてお届けしてきました。
入仏式関連記事「お仏壇を買ったことはおどろきなり」

このタイプのご本尊は、仏壇が必要なくてどこにでも置けます。
アパート・マンションにぴったりです。^^
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2012年9月常例法話~自分以上の自分~

常例法話

ご講師は千葉県市原市 西光寺 吉弘先生でした

朝からの雨にもかかわらずたくさんの方がお越しくださいました。
今日のご講師は、千葉県市原市の西光寺ご住職 吉弘円秀 先生でした。
「涅槃経」に説かれる、王であった父親を殺した阿闍世(アジャセ)王子の救いを中心に、
お話くださいました。 続きを読む

僕は死に際、何を後悔してるんだろう・・・

ラオウ

ラオウ昇天Tシャツの通販ページに飛びます

我が生涯に一片の悔いなし
(コミック版「北斗の拳」16巻 40頁)

漫画「北斗の拳」で、
ケンシロウの義兄ラオウがケンシロウとの壮絶な戦いに敗れた後、
自ら秘孔を突いて大往生を遂げる際のひとことです。
※意味不明な方、申し訳ございません・・・(笑)

僕もこう言って死んでいきたいものです。
僕は何を思いながら死んでいくんだろうか・・・。 続きを読む

かわいい?

なめこの人形

謎のなめこ人形・・・

宝満寺では、受付係(寺務員さん)として、3人の若奥さまが交代制で、来てくれます。

先日、坊守と若奥さまNさんの2人が、何やら、「カワイイ~♪」とか言いながら、
ナメコの人形の話で盛り上がっていました。

何がカワイイのか全く意味不明でしたので、なるべく関わり合わないようにしていたのですが、

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お彼岸といのちのつながり

9月19日から25日までが秋のお彼岸になります。
秋分の日の22日(土)が彼岸の中日(ちゅうにち)になります。

宝満寺でも、たくさんのご門徒さんがお墓参りに来ます。
また、通常の月忌参りに加え、お彼岸のお参りもありますので、
法務もだいぶ忙しくなってきます。

「彼岸」とは、こちらの投稿記事でも書きましたが、
煩悩で汚れきった娑婆世界「此岸(しがん)」に対しての、”彼(か)の岸”
つまり、さとりの世界、浄土の世界を表す言葉です。

そしてこの「お彼岸」の中日(ちゅうにち)は、
春が「春分の日」、秋が「秋分の日」にあたります。
この日は、太陽が、真東からのぼって、真西に沈む日です。

このことから、
”西方”十万億土にあるとされる「極楽浄土」をしのぶ日
として、古来から定着していったんだそうです。

お彼岸中に、ご先祖のお墓参りをしていただき、
「いのちのつながり」を考えていただくのもいいんではないでしょうか?

自分の番
 ~いのちのバトン~
作 相田みつを

父と母で二人
父と母の両親で四人
そのまた両親で八人
こうして数えてゆくと

十代前で、千二十四人
二十代前では-?

なんと、百万人を超すんです

過去無量の
いのちのバトンを受けついで
いま、ここに
自分の番を生きている

それがあなたのいのちです
それがわたしのいのちです

如実知見

僕は、普段、色んなことで悩んだり、考え事にふけってしまったりしています。

「如実知見」とは、

ものごとをありのままに、事実を事実として、ものごとの真相を正しく見極めること。

です。

私達は、自分の気持ちを、人にわかってもらいたい、と考えます。
※特に好きな人、愛する人、仲の良い友人には・・・。
だから、自分の気持ちを、わかってもらえないとき、
自分の気持ちに、気付いてもらえないとき、
苦しみます。怒りがこみ上げてきます。
「何でわかってくれないの!?」

でもちょっと冷静に考えてみれば、
僕の気持ちを、他人にわかってもらえるはずがありません。
エスパーじゃないんですから。
察してもらうことはできるのかもしれません・・・が、
僕の気持ちを、他人に完全にわかってもらえるなんて不可能です。

その為に言葉があります。
そしてその言葉にも限界があります。
そして言葉(文章)をもってしても僕の気持ちを完全に伝えるなんて不可能です。

不可能なことを自分で可能だと思い、勝手に悩んでいるだけです。

僕は、僧侶になる前、会社員でした。
営業でした。”ほこり”をもってやっていたつもりです。
突然、内勤に異動という人事通達がきました。
「なんで?」「成績も悪くないはずなのに?」「こんな理不尽が許されるの?」
色々悩みました。考え込みました。

でも、ちょっと冷静に考えてみれば、
そんなことに悩むなんて、全く無駄、無意味なんです。

会社は理不尽なんです。矛盾しているのが会社なんです。
会社ってのは結局、人間の集団ですから。
人間の心は理不尽です。矛盾しています。
時に理屈で動き、時に感情で動き、人の心は絶えず変化し続けます。
人間は、理不尽です。矛盾しています。
だから、
会社は、理不尽です。矛盾しています。
そして、
社会も、理不尽です。矛盾しています。

人間である以上、会社員である以上、社会人である以上、
理不尽なこと、矛盾していること、は当たり前のように経験します。

「なんで?」「なぜ理不尽なの?」「なんで矛盾しているの?」
なんて悩んでも、考えても無駄・無意味だと思うんです。
そういうものだ、と現実を受け入れていくしかない、と思うんです。
その上で、悩んでも意味がある悩みを悩み抜く。
例えば、
「内勤の人達との人間関係を気付くにはどうしたらよいか?」とか、
「内勤の仕事を効率よくこなすにはどうしたらよいか?」とか。
現実に即した悩みの方が、全然いいと思うんです。
その方が同じ悩むにしても、意味があると思うんです。

まあ、えらそうに言ってますが、
それができなかったから、僕は会社を辞めたわけでして・・・。(笑)

頑張るにしても、
可能なこと。不可能なこと、
をしっかり見極めることって大切だと思います。

悩むにしても、
悩んでも意味があること、悩んでも意味がないこと。
しっかり見極めることって大切だと思います。

自分が出来ないことを出来ると思い込み頑張ってしまうと、
苦しみます。当然自分には出来ませんから。

  • 例)自分の過去を変えることはできません。
    他人を変えることはできません。

不可能なことを可能だと思い込み、悩んでしまうと、
苦しみます。永久に解決は不可能ですから。
永久に悩み続ける、迷うことになっちゃいます。

  • 例)私の気持ちを他人にわかってもらいたい。
    うまくいかないのは、過去の~のせいだ・・・。

仏教を学ぶということは、
ものごとを正しく見極める能力を学ぶ、ということでもある、と思います。

自分から 回っている気の かざぐるま

私達は普段、あらゆるものごとを、「私の立場」から考えていきます。

でも、「私の知識」、と思っている知識は、
もともと、両親から、先生から、友人から、他人から、いただいたものです。

「私のいのち」、と思っているいのちは、
もともと、両親から、いただいたものです。
そして、他のいのちをいただくことでのみ生きられるのが私のいのちです。

私達は普段、「自(分)」の「力」で生きていると思っています。

でも別の言い方をすれば、

私達は、「他」の「力」の「おかげで」で生かされている。
とも言えます。
要はあらゆるものごとは、

「おかげさま」

です。

悩んだときに、ちょっと立ち止まって、

「自(分)」の方からだけの見方をしている私がいないか、
「他」の方からの見方を忘れている私がいないか、
確かめてみるのもいいんじゃないかな・・・と思う今日この頃です。