精一杯休む。

生きているということは確実に死に近づくこと。

一歩一歩確実に「死」に向かって歩いている。

「死」がむなしい、無意味なものであるなら、

「死」に近づくにつれ、むなしさ、恐怖感がつのっていくばかり。

 

もし「死」に意味を見いだすことができたら、

「死」が私が滅んでいくことではなくて、

「死」が、

「人として生きてきた私が新たな場所に往き生まれること」、

「私が先に見送ってきた、亡き愛する者とまた会えること」、

そして

「私が残してきた愛する者のしあわせを願い、見守っていくこと」、

と意味を見いだすことができたら、

「死」は決してむなしく、無意味なものでなくなるはず。

そして意味を見いだすことが出来たとき、

「私の死んで行く場所」が、

「むなしく無意味な恐怖の場所」

から

「私の還(かえ)るべき”ふるさと”」に変わる。

私のこころに、「還(かえ)ることのできる”ふるさと”」ができる。

私のこころに、よりどころを得た安心感が生まれてくる。

このとき「救い」は完成する。

 

後は人としての一生を精一杯生きるだけ。

その日その日、目の前のやるべきことを精一杯やっていくだけ。

朝起きて「今日も朝目が覚めたこと」に「ありがとう」。

夜寝る前「今日一日生かされたこと」に「ありがとう」。

一日一日精一杯生きていくだけ。

ひたすら目の前の現実を見て、ひたすら現実を受け入れて生きていくだけ。

ただただ現実を生きる。

世間にはびこる、変なおまじないや変な宗教に逃げることなく。

それでも現実から逃げたくなったら、

仏さまにちょっと甘えてみる。

「そのままでいんだよ。」

「逃げたくなるのが人なんだよ。」

ありのままの私を受け入れてくれる。

そしてまたひたすら現実を生きる。

成功するもよし。失敗するもよし。

仏さまの目からみれば、人生に成功も失敗もない。

そして、縁尽きて人生が終わったら、

あとはおまかせするだけ。

ふるさとに還るだけ。

(ひとりごと おしまい)

 

今日寳満寺の法務は休みでした。
部屋の掃除。
洗濯。
買い物。
サーカー観戦。※勝ちましたね♪
精一杯休みました。(笑)