七日法事も早、3日目になりました。
本日ここにお参りいただいた方々は、ここ1年で身近な方を亡くされて、言い表しようもなく、つらく、哀しい思いをされた方ばかりだと思います。
実は私も3年前の平成22年の12月14日に母を亡くしました。おととしが、母の新盆でした。
父から「母が亡くなった」と電話をもらった時、私は銚子にいましたので、長野にすぐかけつけました。
到着して布団に寝ている母を見た瞬間、涙があふれてきまして、しばらく止まりませんでした。
今考えてみますと、その時流した涙は、かなしさ、さびしさの涙というよりは、後悔の涙だったように思います。
きっと、ここにお参りいただいている皆さまがたも、身近な方との別れを通して、いろんな思いが沸き起こってきた事だと思います。
ここで少し考えてみますと、
皆さまがたに沸き起こってきた思い、皆さまがたが自ら沸き上がってきたと感じた思いは、言い方を変えますと、亡き方から与えられた思い、亡き方からさずかった思い、という言い方もできます。
そう考えますと
母の死を目の当たりにして、私にわき上がってきた後悔の思いは、母が、私に与えてくれた思いでした。
母がみずからの命をもって、私に気づかせてくれた思いでした。
仏教は、目覚めの宗教と言われています。気づきの宗教とも言えると思います。
そして仏教が目覚める宗教であるならば、他の宗派が、修行をして自ら目覚める、気づく宗派なのに対し、浄土真宗は目覚めさせていただく宗派です。気づかせていただく宗派であります。
親鸞聖人がまとめられたご和讃の中に、
安楽浄土にいたる人 五濁悪世(ごじょくあくせ)にかえりては
釈迦無尼仏のごとくにて 利益衆生(りやくしゅじょう)はきはもなし
というご和讃があります。
亡くなった方はすでにこの娑婆世界での姿はありません。お骨がお墓の中にあるのみです。
実際の声を聴くことも二度とかないません。
けれども、お浄土に生まれ釈迦牟尼仏と同様さとりをひらき、そしてこの娑婆世界にかえりきて、他でもない、私達に声なき声をかけつづけてくださっています。願いといってもいいかもしれません。
寶満寺の廊下に「聴無声」という三文字の掛け軸がかかっています。「ちょうむしょう」「ちょうむせい」でしょう。文字通り意味は「声無き声を聴く」です。
聴というのは、注意深く、すすんで耳を傾ける、という意味、
聞というのは、自然と聞こえてくる、という意味だそうです。
お盆も間近にせまってきました。是非、亡き方をしのばれるのと同時に、亡き方の声なき声を、
耳をかたむけて聴き取っていただければと思います。
そして、是非声に出して「南無阿弥陀仏(なまんだぶ)」とお念仏していただければと思います。
最後に中西智海和上という方が詠まれた詩をご紹介しまして終わりとさせていただきます。
人は去っても
その人のほほえみは
去らない
人は去っても
その人のことばは
去らない
人は去っても
その人のぬくもりは
去らない
人は去っても
拝む掌(て)の中に
帰ってくる
「お念仏するところに亡き人とも遇える」
親鸞聖人は、こう言われております。
本日はとおといご縁、どうもありがとうございました。