『念仏者の生き方』 

伝灯奉告法要

伝灯奉告法要

平成28年10月1日から平成29年5月31日まで、京都の本願寺で「伝灯奉告法要」がお勤めされます。※「伝灯奉告法要とは?
法要初日に、大谷光淳ご門主が「ご親経(ごしんぎょう)」を述べられました。
その全文を掲載します。
注目すべきは、とかく凡夫や他力を口実に、『個々の「生き方」は問わない』といった宗門の風潮をいましめられている点。
「生き方」を問わないのならば、もはや仏教とは呼べないはずです。
煩悩具足の身ではありますが、少しでも煩悩を克服しようという生き方こそ、
正に念仏者の生き方だと(僕も)思います。

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死は最後の贈り物

久しぶりの投稿です。紆余曲折ありまして、たまに東京、千葉でお通夜・ご葬儀に出仕させて頂いております。
最近よく、お通夜の法話の際に、平野恵子さんの子供達に宛てられたメッセージを朗読しています。

平野恵子さんは、岐阜県高山市の浄土真宗の寺の坊守(住職の奥様)でした。

彼女が39歳の時に癌(ガン)の告知を受け、41歳の時に往生されました。

癌の告知を受けた時、平野恵子さんには三人のお子さんがいましたが、そのお子さん達へ宛てた手紙形式のメッセージです。

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平成25年 七日法事 法話①

七日法事も早、3日目になりました。

本日ここにお参りいただいた方々は、ここ1年で身近な方を亡くされて、言い表しようもなく、つらく、哀しい思いをされた方ばかりだと思います。

実は私も3年前の平成22年の12月14日に母を亡くしました。おととしが、母の新盆でした。

父から「母が亡くなった」と電話をもらった時、私は銚子にいましたので、長野にすぐかけつけました。

到着して布団に寝ている母を見た瞬間、涙があふれてきまして、しばらく止まりませんでした。

今考えてみますと、その時流した涙は、かなしさ、さびしさの涙というよりは、後悔の涙だったように思います。

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2012年8月常例法話~森繁久弥の涙~

今日は宝満寺さんの常例法話。
今日のご講師は、千葉県柏市の西方寺ご住職 西原祐治 先生でした。
中でも森繁久弥さんが「屋根の上のバイオリン弾き」という公演で、唯一泣いてしまったことがあった、というお話が印象的でした。

芝居がはじまったのに、最前列の女の子が、ずっと下を向いたまま・・・。「いねむり」をしていた。
それを見た森繁さんやその他の俳優さん達は、やはりおもしろくない。
その女の子を「起こしてやろう!」と、舞台上から、その女の子の近くに行くたびに、
「ドン!ドン!」と音高く舞台の床を踏みつけていた。
しかし、それでも女の子は起きようとしない。
結局芝居が終わるまで、起きなかった・・・。

そして、アンコールが終わり、舞台が明るくなって、舞台あいさつをしようとした時はじめて、森繁さんは、立っていた女の子の顔が見えた。

その女の子は顔を上げていたが、両目は閉じたまま。
その女の子は全盲だった。
居眠りに見えたその女の子のうつむいていた姿は、両耳に全神経を集中させ、見ることが出来ない芝居を、必死に観(み)ようとしていた姿だった・・・。

それを知った森繁さんは、舞台上で泣きながらその女の子に謝罪した・・・。

というお話でした。

その時の森繁さんのこころを思うとき、間違いなく、心からの後悔があったことと思います。
「後悔」は「反省」につながり、そしてそれは「何とおろかな自分だったんだ・・・」という「気づき」につながります。

智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし
(『正像末和讃』 注釈版606頁)

浄土真宗は、「智慧の念仏」である名号のはたらきによって、「信心の智慧」が具(そな)わり、
信心によっていろいろなものに「目覚めさせていただく教え」「気付かせていただく教え」です。

仏さまの真実のものの見方が知らされていく中に、それまで正しいと思っていた見方の間違いに気付かされていく。
「何とおろかな自分だったんだ・・・」と気付かされていく。

親鸞聖人は、『御消息』の中で、師法然聖人の下記のおことばを引用されて、
「たしかにうけたまはり」とおっしゃっております。

愚者になりて往生す
(『親鸞聖人御消息』 注釈版771頁)

「愚者と思える自分でありたい」そう味あわせていただきました。

西原先生ありがとうございました。

西方寺 西原先生

西方寺 西原先生

蓮の花(はすの花)

以前、新盆にあたられている寳満寺(宝満寺)さんのご門徒さん宅をお伺いした時のこと。
蓮の花のおかざりにはどういう意味があるのか?
というご質問をいただいた事がありました。

お寺ではたくさんの「蓮の花」を見かけます。
浄土真宗のご本尊、阿弥陀如来が立たれているのも蓮の上ですし、
また教典・聖典の中にも、「阿弥陀経」はもちろん「正信偈」にも「蓮の花」がでてきます。
「蓮華(れんげ)」と書いてある場合もあります。

仏教では「泥中の蓮華(でいちゅうのれんげ)」としてそこにひとつの意味を持たせています。

蓮の花は、決して美しい環境とはいえない泥の中に生えて、それでも泥に染まらず、とても美しいきれいな花を咲かせます。

泥は私たちがいるこの娑婆世界をあらわしています。
泥は私たちの「煩悩(ぼんのう)」をあらわしています。
そして「花」は仏教でいう「さとり」をあらわしています。
「花」は「物事をありのままに見ることができる、美しい清らかな心」をあらわしています。

つまり仏教では「このどろどろした娑婆世界で、美しい清らかな心をもった目覚めた者になろう」と蓮の花を意味づけています。

しかし「煩悩を無くし、さとりをひらく」ことが出来ればいいのですが、
やはり圧倒的大多数の人が、泥の中にいれば泥に染まってしまいます。

でも親鸞聖人はそれが悪いことだとはおっしゃっておりません。

正信偈の中に、

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味

とあります。わかりやすく意訳しますと、

よく信心をおこして、阿弥陀様の救いを喜ぶ人は、清い水をもつ川、泥水をもつ川、あらゆる川の水が海に流れ入って一つの味の澄んだ水になるように、煩悩を断たないままですべて等しく悟りを得ることが出来る。

という意味です。

そして正信偈はこう続きます。

摂取心光常照護 已能雖破無明闇
貧愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

ここで親鸞聖人は、煩悩を「雲(くも)」「霧(きり)」におおわれた「闇(やみ)」に例えられております。
「闇」をうちやぶるのは「光」意外にありえません。
ひとすじの太陽の光がさせば、「闇」は一転、明るい世界です。
「闇」が「闇」をうちやぶるのではなく、「闇」は「闇」のままで、
太陽の光によって明るい世界へと変えられていきます。

闇(煩悩)に囲まれた私たちが、自らその闇(煩悩)を打ち消すことは非常に難しいことです。
しかし、闇(煩悩)はそのままで、阿弥陀さまの本願の光に包み込まれて、光の世界へと変えてくれる、親鸞聖人はそうお説きくださっております。

最後に、
「蓮の花」というのは、きれいな澄んだ清流のような水のあるところには決して咲かないそうです。
「泥の中」にしか咲かないそうです・・・。

そして、花が咲くには、太陽のひかりが必要なのは、言うまでもないですね・・・。

蓮の花

宝満寺隣のため池に咲く蓮の花

七日法事(新盆法事)法話②

今日でようやく七日法事が終了。
今年は毎日たくさんのご門徒さんがお参りくださいました。
暑い中、早起きをしてお参りくださいましたご門徒さん達には本当に頭が下がります。

七日法事の六日目の昨日、自分が法話をする番。
話す内容が直前までまとまらず・・・。
早起きしてお参りくださったご門徒さんに対し、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。今後への反省をこめて、あえて原稿を後悔公開。

「法話とは?」

浄土真宗の伝道は「仏徳讃嘆」「自信教人信」という言葉につくされます
浄土真宗では、法話を聴聞することが大事にされてきました。
法話とは、阿弥陀如来の救いの法を讃嘆することです。
浄土真宗本願寺派 綜合研究所

「布教師の先生から教わった事」

下記のどの話題にもさわっていない話は法話ではない。

  • 本願
  • 念仏
  • 浄土
  • 成仏

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