親戚に、独り身で要介護の女性がおります。
本来なら施設入所もあり得る状態ですが、本人の強い希望で自宅で一人暮らしをしています。
家族は誰もおらず、自分のことは自分でしか決定出来ない状態の人です。
訪問ヘルパー等の社会支援は受けていますが、現状足りているとは言えない状態です。
彼女の知人達が有りがたい事に手を貸してくださることも多いですし、私も以前は手を貸すこともありました。
彼女に関わる人は皆密かに「彼女が自宅で暮らすにはもっともっと社会支援が必要であるか、或いは、施設入所も考えねばならない」と感じています。
しかし本人は自分がそんな状況だとは認めたくない。
何となくその旨を彼女に話しかけて下さる方もいるのですが、「私は今のままで一人暮らしができる!」の一点張り。
本人は別に、誰かに迷惑を掛けたいとかわざわざ手を借りたいとか思っていないようなのですが、今のままではそうせざるを得ないし、実際そうなっているのです。
その自覚がない。自分でどうにか出来ていると思っているようです。
それならば、と、私は一切手を退くと宣言して、余程必要でない限り関わらないようにしています。
別に、緊急時にSOSを出されても出向かない、と言うわけではなく、ただ単に言われないなら自主的には一切何もしない、という感じです。
けれども、知人の中には「そんなあなたは冷たい」と言う人がいます。
確かに私は彼女をよく思ってはいないし、冷たいかも知れません。
ですが、家族のいない彼女の面倒の一切を引き受ける人はいないし、私も親戚達もその知人達も、自分の都合で手を出したり出せなかったりするのです。
何かあった時に100%駆け付ける人など、彼女のことで責任を持てる人など、一人もいないのです。
「酷い目にあえ!」というのではなく、口で言ってわからないなら体感してもらうしかないと思っています。
これはそんなにも「冷たい」ことでしょうか?
優しくは確かにないでしょうが、不確定な手出しを「優しさ」と本当に言えるのでしょうか?
女性/七海/京都府/20歳代
お坊さんの回答はこちら。
以下ひとりごと。
自分自身を見つめること・・・
自分自身のこころを見つめること・・・
自分自身の本音を知ること・・・
すごく難しいことなのか?
それを受け入れることが難しいことなのか?
自分の本音を押し殺して、
自分を世の中の道徳観に、適応させて生活しているのが人間。
世の中の道徳と自分自身の本音が真逆だったとしても、
それは人間なんだからあたりまえ。
一人一人、考え方、価値観なんて違うから。
本音の自分と建前の自分が2人いて、あたりまえ。
殺したいほど憎いと『思うこと』なんてあたりまえ。
でも絶対に人を殺してはいけない。そう、絶対に『行動してはいけない』。
これもあたりまえ。
矛盾する自分が2人いて、あたりまえ。
どちらも自分。
そして他人にも皆、それぞれ2人の自分がいて、あたりまえ。
どちらのあの人も同じあの人。
それを受け入れると、すごい楽だし優しくなれるのではないだろうか。
あとは本音の自分、つまり、『こころの中の自分』をコントロールしつつ、
建前の自分として、『身体としての自分?』として『行動』していくだけ。
自分を受け入れること。それは他人も受け入れること。
そして、
自分の行動に責任をとること。他人の行動を許すこと。
- 『本音と建て前』(当ブログ 2012年10月9日投稿記事)
ふと思った、やっぱり許せない自分のための記録です・・・^^;