3年ほど前、私が京都の中央仏教学院(以後略して”中仏”と呼びます)という浄土真宗の専門学校に通っていた時、ふと
「亡くなった赤ちゃんは、お浄土に往けるのか?」
という疑問が沸いた時がありました。
浄土真宗の教義に詳しい方ならご周知のとおり、
「信心正因(しんじんしょういん)」といって、
「往生浄土」の「因」は「信心」であります。
※詳しい説明はあえて避けます。
赤ちゃん(0歳~1歳位でしょうか?)は、お念仏はもちろんできないでしょうし、ましてや信心をいただいているとはどうしても思えませんでしたから。
そこで、当時中仏のご講師の一人だった、
”新門さま”(※浄土真宗本願寺派時期ご門主です)にこの質問をぶつけてみました。
新門さまは少し悩まれたあと、
「その質問は何か役にたつのかな?中仏を卒業するまで、考えてみるといいよ。」
と言われ去っていかれました。
当時の私は、なんだ答えられないのか、と明確な回答を得られなかったことに、かなり不満でした。
しかし今考えてみますと、この質問は、あきらかにおかしな質問です。
まず、「仏教」そして「浄土真宗」の「おしえ」は、この私自身以外の誰のための教えでもない、という事です。
仏教は「私が」目覚めるためのおしえです。
そして浄土真宗は「この私自身」が、信心をいただき、お念仏申しながら、目覚めさせていただくおしえです。
よって、「亡くなった赤ちゃん」という私にとっての「他人」の信仰についてどうこう言うのはナンセンス(無意味)です。
「赤ちゃん」を「キリスト教を信じている人」「となりのあの奥さん」とかに置き換えてみるとわかりやすいかもしれません。
そしてもうひとつ、この質問のおかしな点は、「~が、お浄土に往けるのか?」と、「お浄土」という存在をはじめから肯定して(認めて)質問している点です。
この質問に、「はい」にしろ「いいえ」にしろ答えた時点で、「お浄土」という存在を認めることになります。
この質問を「浄土を認めていない人」がすることや、この質問に「浄土を認めていない人」が答えることは、その質問をした時点、その質問に答えた時点で、「浄土の存在を認めたことになり、矛盾していることがわかります。
※「無記の問い」とか「無記」という単語でググるとインターネットで検索すると、詳しい説明のページがでてくると思います。
以上のことから推察するに、上記の質問に対し、新門さまは、答えられなかったのではなく、あえて答えなかったんではないでしょうか。
ここで、私(僕)に赤ちゃんがいて、不幸にしてその我が子を亡くした場合のことを想像してみます。※いまだ独身ですが妄想してみます(笑)
もし、私がキリスト教信者だったならば、我が子はきっと天国に行ったと思うでしょう。
私にはそもそも「お浄土」という概念が無いでしょうから。
もし、私が我が子(赤ちゃん)の死をとおしても、「さびしい」「かなしい」という感情で終わってしまう私だったとしたら、何も得るものがなかったなら、苦しみがつのるばかりで、「我が子がお浄土に往った」と言われたところでとても信じられてなかったでしょう。
そして、もし愛しい我が子(赤ちゃん)の死をとおして、「私が」いのちの尊さ、いのちの無常さ、に気づかせていただくことができたのであれば、間違いなく我が子は私にとっての「仏」であり、私からすれば、他の人が何と言おうが、我が子すなわち「赤ちゃん」はお浄土に往ったことになります。
質問したその当人の信仰とか心持ち?次第で答えが変わってくる問い。
仏教的に言えば「空(くう)」でしょうか?
「(我が家の)右隣のお宅の奥さんは幸せでしょうか?」
という質問を、(我が家の)左隣の奥さんにしているのと同じことです。
この質問がいかに無意味かわかるかと思います。
「信心正因(しんじんしょういん)」
の「信心」は、
赤ちゃんの「信心」じゃありません。私自身の「信心」です。
質問に答える時には慎重に・・・。
おかしな質問に答えると、答えも必ずおかしくなります。
「答えないこと」もときにはまた答えです。