お盆のいわれ(餓鬼道に落ちるのは?)

お盆は正しくは「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といいいます。
「盂蘭盆会」というのは「盂蘭盆経」というお経に説かれた物語に基づいています。

お釈迦様のお弟子に目蓮という方がいました。目蓮尊者と呼んでいます。
目蓮は心のやさしい方で、亡くなった母の事が忘れられず、いつも育ててくれた恩を感謝していました。
ある日、目蓮は、その亡くなった母がどこに行っているのか神通力で探してみました。
神通力というのは目に見えないところを見通せる力のことです。

そしたら餓鬼道に墜ちて、飲まず食わずで皮と骨ばかりになって苦しんでいるのを発見しました。
餓鬼道というのは、むさぼりの心や行為をした人が死んで生まれ変わる世界とされる、
地獄みたいな、ところだと思ってください。

目連は悲しんで、食べ物を、亡き母のもとへそれを持って行きました。
母は食べようとしますが、口に入れる前に燃えてしまい、食べる事ができません。

目蓮はさらに神通力でその母の餓鬼道に墜ちなければならない理由を知ろうとしました。
そこには、生前目蓮の知らなかった母の一面がありました。

母は目蓮にこそ、この上もなくやさしい人でしたが、他人に対しては、ものをとりこむ一方で、施したり、恵むという事を一切しない人でした。

つまり目蓮を育てるため、目蓮を食べさせたいがために、母親が餓鬼道に堕ちたのだと知った目連は、お釈迦様になんとか自分の母親を救えないものかと、泣きながら尋ねました。

するとお釈迦様は、修行僧達の修行が7月15日に終わるので、この7月15日に、お釈迦様のおられる塔にお供物を盆にもってささげて、すべての修行僧達に、ごちそうをふるまいました。

するとその結果、目連尊者の母親は餓鬼道から救われたそうです。

それを知った修行僧達は大いに喜び、歓喜の踊りを踊ったということです。
この踊りが「盆踊り」の始まりだといわれています。
それ以来、7月15日が先祖を偲ぶ日として定着していったようです。

以上がお盆のいわれとなります。

そして実は、「盂蘭盆」という言葉はもともと古代インドの言葉なんですが、
さかさま」という意味があるそうです。

ここで考えてみますと、
目蓮は、母親が我が子かわいさに、私(目蓮)(だけ)を食べさせたいがために餓鬼道に落ちたことを知りました。
ではその当の目蓮は・・・、
実は、その当の目蓮でさえ、「『母親(だけ)』をすくえないものか」とお釈迦さまに泣きながら頼んでいます。

このことは、目蓮自身も母親と同じ餓鬼道に墜ちる身であるということを教えてくれています。

「母親が餓鬼道に落ちた理由」を目の当たりにしながら、
目蓮はやはり、餓鬼道に落ちた全てのものではなく、母親(だけを)を救おうとしていたのです。

これは、私自身にも当てはまるのではないでしょうか?

私がお盆の時に偲ぶ・思うのは、せいぜい近しい方だけではないでしょうか?
私の近しい方以外(他人)を偲んだり、思うことはそうないのではないでしょうか?

つまり、私自身は目蓮同様、目蓮の母親同様、どうあがいても餓鬼道に墜ちる身であるということを教えてくれています。

「盂蘭盆会」=「さかさま」

お釈迦さまは、すべての修行僧達にごちそうをふるまう・・・。

う~ん・・・深いと思いませんか・・・?
(※偽経とは言われていますが・・・。)