浄土真宗の教えは「他力」です。つまり「自力無効功」。
これは「往生のために自らの力は何ら役にたたないこと」を意味します。
「他力」の教えは、親鸞聖人が到達した結果であり結論ですが、そこに至るまでの比叡山の20年間の修行は「自力」でした。
親鸞聖人の考える「自力」とはどういうものだったのか?
中央仏教学院長「白川晴顕(しらかわはるあき)」先生が書かれた『親鸞聖人と超常識の教え(永田文昌堂)』から引用させていただきます。
(略)一般的に自力といえば、往生のために自らの力を励み努力することのように思われがちですが、決してそうではありません。
(略)
自力とは、わが身や励んで得た善根功徳をあてにし、たよりとして、それを往生のために役立たせようと「はからうこころ」であることになります。
(略)
自力と他力は対立するものではなく、他力は自力を包摂(ほうせつ)する立場にあり、他力(阿弥陀如来の大悲)のはたらく場が自力の世界であることを示すものです
二十年間の比叡山時代は、聖人にとって真実が得られないという苦悶の中で、挫折や絶望を抱かずにはおられなかった世界です。
そして自らをあてにして「はからいのこころ」をもって励む自力の限界を身をもって知らされた世界であったともいえます。
このことと、私たち人生の中で思いがけない不幸に出逢ったり大きな壁にぶち当たったりして、さまざまな苦難を体験し、それによって挫折や絶望を味わうこととは異質なものではないように思えます。
普段私たちは、自分の知識や理性、常識に照らして、ものごとの価値判断をしていきます。
要は、自分の考える事は正しいと、自分をあてにして生きているわけです。
仏教では、その「自分の考える事は正しいと思ってしまう自分のこころ」を煩悩と言っています。仏教でさとりをひらくという事は、「ものごとをありのままにみること」、
浄土真宗的に言えば、「阿弥陀さまと同じものの見方」ができるようになることです。
親鸞聖人は、私たちに「阿弥陀さまと同じものの見方をしろ」とは一言も言われておりません。ただ、「阿弥陀さまと同じものの見方ができない」愚かな私であると気付かされることの大切さを教えてくださっています。自分の知識、理性、常識がいかにあてにならないか、気付くことの大切さを教えてくださっています。
お釈迦様は、自らの愚かさを嘆いて教団を去ろうとしたお弟子(周利槃特)に、こう言われたそうです。※後にこのお弟子さんは”さとり”をひらかれたそうです。
自分の愚かさを知る者こそが、智慧あるものなんだ。
自分の愚かさに目を向けず、自分が賢いと思う者こそを愚者と言う。
おまえは自分が愚かだと、すでに知っているじゃないか。
そして親鸞聖人は、晩年(88歳頃)、『正像末和讃』にこう書き足されております。
よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを
善悪の字しりがほは おおそらごとのかたちなり
『正像末和讃 自然法爾章 注釈版622頁』
(意訳)
物事に善悪の価値判断ができない人は、真実のこころを持ち、
あたかも善悪を知っているかのような素振りをする人は、嘘・偽りの姿にすぎない。
私が生きていく上でせざるを得ない価値判断の基準は、煩悩にまみれた私自身です。
私自身にとって都合の良い見方で判断しているにすぎません。
阿弥陀さまの真実のものの見方が知らされて行く中に、それまで正しいと思っていた物の見方の間違いに気付かされていく。
そういう「気付き」の積みかさねの日暮らしの中で、「信心」、すなわち
自分の中に往生するために役立つもの、あてになるものが何一つないと知らされ(機)、
また阿弥陀さまの本願のはたらきにすべてをまかせるしかない。(法)
(二種深信)
という”こころ”がいただけるんじゃないかな、と、そんな風に思う今日この頃です・・・。
最後に白川先生のご法話を紹介させていただきます。
(続く)
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