帰れるふるさと

テレビのニュースによると、今日明日くらいから、ふるさとへ帰る人達の帰省ラッシュがはじまるそうです。

今朝、寳満寺さんの本堂の中の掃除をしていると、10匹近くのスズメバチが死んでいるのを見つけました。
実は七日法事が始まる前、7月の後半位に、本堂近くにあったスズメバチの巣を駆除していました。
きっと帰る場所を失ったスズメバチ達が、帰る場所を探して、本堂に迷い込んだあげく、力尽きて死んでいったんだと思います。

「帰れるふるさと」があるって、すばらしいことだと、ふと思った今日この頃です・・・。

普段私達は、自発的に「生きている」「私の『いのち』は私のもの」と思いがちですが、
仏教では「私のいのち」は、「さまざまなご縁によって生かされている『いのち』」です。
私は「いのち」をいただいているわけです。

子供の頃、
「死んだらどうなるんだろう・・・」
なんて事を考えたりしたことがありました。

「私の身体(からだ)」(つまり「私を構成している物質」)は、さまざまなご縁によって今この瞬間、たまたまこういう姿をいただいておりますが、「死んだとき」すなわち、その「ご縁が尽きたとき」には、「私を構成していた物質」に戻るわけです。
よく「土に帰る」なんて言います。

そして「私のいのち」も「さまざまなご縁によっていただいた『いのち』」と味あわせていただきますと、「そのご縁が尽きたとき」には、無くなるわけでもなく、どこかへ行くわけでもなく、「私の身体」同様、ただ元に戻るだけです。

私を私たらしめてくださった「いのちの世界」「いのちのふるさと」へと戻るだけです。
だから、決して「いのち」が無くなるわけではないと思うんです。

7月の寳満寺の常例法話に来て下さった純心寺の曽我先生が「いのち」を「海の泡」に例えられてお話くださいました。

海の水が岩にうちつけると泡ができます。
「すぐ消えてしまう泡」「しばらく保つ泡」。いろいろな「泡」があるけれども、
その「泡」は無くなるわけではない。ただ大いなる海にまた還るだけです。

浄土真宗では、その「大いなる海」「『いのち』が還る『いのちのふるさと』」を
「お浄土」
とよんでいます。
だから、「お浄土に還らせていただく」(還浄)という言い方をします。

「帰れるふるさと」があるって、すばらしいことだと、思った今日この頃でした・・・。
南無阿弥陀仏。