しあわせはいつも自分のこころがきめる
(相田みつを)
8月の宝満寺の掲示板のことばです。僕が選びました。
法務員2人が毎月交代で、ことばを選んで書いています。
よく「しあわせを求める」なんて言い方をします。
でも「しあわせ」って「求めるもの」じゃないような気がします。
仏教では「求めること」ということは「欲望」。
求めているうちは、求めても、求めても、きりがありません。
「しあわせ」って、「いただくもの」「気づかせていただくもの」そんな気がします。
同じ出来事を経験しても、その受け止め方、感じ方は人それぞれです。
以前、掲示板に、
人生における苦しみはすべて如来のはげましである
(曽我量深 師)
ということばを選んだことがありました。このことばを、
「仏さまがわたしの(目覚めの)ために苦しみを与えてくれている」
と味あわせていただきますと、
実はもうたった今、すでに、
「仏さまはわたしにたくさんのしあわせ”も”与えてくれている」
と思うんです。
「しあわせ」と思えないのは、本当はもうすでに届いている「しあわせ」に、
気付けていないだけのような気がするんです。
「苦しみを如来のはげまし」と受け取れるこころにしあわせはある、
そんな風に思うんです。
そしてたった今ここに、「自分が考えるしあわせ」を追い求めざるにはいられない僕がいます。
「しあわせになるにはまず結婚することダ!」と考えている独身の僕がいます・・・。
友人達の例を見る限り、結婚したらしたで、苦労するのは目に見えているのですが、
それでも、求めざるにはいられない凡夫の僕がいます・・・。
最後に僕の一番好きな親鸞聖人のご和讃を一句。
このブログの名前でもあります。葬儀のときにも必ずよむご和讃です。
本願力(ほんがんりき)にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし
(高僧和讃 注釈版580頁)