大乗仏教のお釈迦さまは「人間」じゃない。

上座部仏教のお釈迦さまは、”人間としての”お釈迦さまです。
「仏」は、お釈迦さま以外あり得ない、と尊敬を込めて、
現在に「仏」が存在することを否定した教えです。

それに対して、
大乗仏教では、現在にも無数の「仏」が存在している

と説いています。
そして、大乗仏教のお釈迦さまは、神通力を持ち、空を飛ぶ、超人、スーパーマンとして教典に表現されています。もはや人間ではありません。(笑)

実は僕も仏教を学び始めた頃、教典を勉強しはじめた頃、
最初に、この点にひっかかりました。
教典では、お釈迦さまが空を飛んでいるではありませんか!
本当に、大乗仏教を信じて良いのか?と。(笑)

 

大乗仏教では三身(さんしん)と言って、仏のタイプを3つに分けています。

1、法身仏(ほっしんぶつ)

  • 無始・無終の存在の仏です。「真理そのもの(真如)」です。
    真理は見ることも言葉にすることも出来ません。(不可思議・不可説)
    お釈迦さまが発見する、しないに関わらず、「真理」自体は存在していました。

    • 毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ) → 華厳宗 「奈良の大仏」
    • 大日如来(だいにちにょらい) → 真言宗
      この2つの仏さまは同じ「真理」を表しています。
      真理が2つある訳はないので、宗派で名前が違うだけです。

2、報身仏(ほうじんぶつ)

  • 有始・無終の存在の仏です。大乗仏教では無数に存在します。
    「報」とは報酬の意味で、立てた「願」と修した「行」に報(むく)いて、
    その結果として「仏(ほとけ)」になられた「仏」です。
    僕は、不可思議・不可説である「法身仏」が人間にわかるよう「方便」として
    出現した「仏」と解釈しています。

    • 阿弥陀如来(あみだにょらい) → 西方極楽世界
    • 薬師如来(やくしにょらい) → 浄瑠璃世界

3、応身仏(おうじんぶつ)

  • 有始・有終の存在の仏です。法身仏が、私たち人間を救うために、
    人間としての体をもってこの人間世界に出られた仏(ほとけ)。
    歴史上インドに生まれたお釈迦さまのことです。

    • 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)

 

大乗仏教で言う「仏(ほとけ)」とは、「法身仏・報身仏・応身仏」です。

言い換えると、
大乗仏教では、

お釈迦さまは、「法身仏(ほっしんぶつ)」の分身として、
人間の姿で真理を説かれた「応身仏(おうじんぶつ)」と考えます。

お釈迦さまは、「仏(ほとけ)」であり、

お釈迦さまは、「法身仏・報身仏・応身仏」です。

つまり、大乗仏教では、お釈迦さまは人間ではないんです。

大乗仏教の「仏(ほとけ)」とは、
「真理」であり、
「如来」であり、
「お釈迦さま」です。

実は、本願寺22代の、大谷光瑞ご門主の時代(明治時代くらい)には、
お釈迦さまが、歴史的人物であるかが、疑われていたみたいです。
でも日本では、大乗仏教の上記の様な考えから、歴史上の人物であろうが、無かろうが、
あまり問題なかったように思います。
それが近代日本に、学問として、様々な初期仏教教典が入ってきて、
「人間のお釈迦さま」という見方が圧倒的になりました。
最初に書いた通り、「人間のお釈迦さま」という認識で、
大乗仏教の経典は、とても信じられるはずがありません。

大乗仏教の経典は、物語形式になっているものが多いです。
文字を文字どおり読むのではなくて、その物語が何をうったえてるのか?何が言いたいのか?という教典の「こころ」を読み取るのが教典を学ぶということだと思います。

信仰は学問であってはいけないな、理屈じゃないな・・・と思う反面、
勉強したての僕がそうだったように、大乗仏教(日本仏教)ばなれが進むのも、
なんとなくわかりそうな気がしちゃう、今日この頃だったりします・・・。