本尊阿弥陀如来と南無阿弥陀仏

阿弥陀如来という仏さま

限りない仏さま

浄土真宗のご本尊は「阿弥陀如来」です。つまり私たちが帰依する仏さまは阿弥陀如来です。「阿弥陀」とは、サンスクリット語で「アミターバ」(無量光(むりょうこう))、および「アミターユス」(無量寿(むりょうじゅ))を音写した言葉です。つまり「阿弥陀如来」とは、無量の光と無量の寿(いのち)の仏さま、ということになります。

無量光とは、空間的に無限であり、どんな場所にも、そのすくいは届いているという徳をあらわしています。
無量寿とは、時間的に無限であり、どんな時代にも、そのすくいは届いているという徳をあらわしています。

無限のよびかけ

阿弥陀如来は無限の仏さまであるという、この一見途方もないお示しは、私自身の本質的なありかたに直結しています。
思えばこれまで私は、阿弥陀如来のおこころを知りもせず、また、そのおこころを知ってもなお、背くように生きてきました。その私に対して阿弥陀如来は、「この阿弥陀にまかせなさい」と、ずっとよびかけ続けてくださっていたのです。それは私がどこで、いつ、何をしていようとも、決して途切れることのない、無限の呼びかけです。

逃げるものを追いかけてつかまえる

その無限のよびかけによって、ひとたび私が阿弥陀如来におまかせしたからには、阿弥陀如来は何があっても絶対に私を捨てることはありません。
私のこころは、どこまでも不確かなものです。ある時は阿弥陀如来をありがたいとよろこべても、ひとたび予期せぬ厳しいご縁に遇えば、阿弥陀如来のことなど、こころから消し飛んでしまうことでしょう。そのように、縁によっては阿弥陀如来に背を向けてしまうような私を、阿弥陀如来はどこまでも追いかけてつかまえてくださるのです。
「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」といわれるこのはたらきが、阿弥陀如来というお名前のいわれであると、親鸞聖人はお示しくださっています。
阿弥陀如来をありがたいと思えないとすくわれないのなら、そのようなこころをもち続けることのできない私は、絶対にすくわれることはないでしょう。
しかし、そんな私をどこまで追いかけてつかまえてくださる摂取不捨の阿弥陀如来だからこそ、不確かなこころのままに、私のすくいは確かである、とありがたくよろこぶことができるのです。

南無阿弥陀仏~阿弥陀如来のお名前~

阿弥陀如来=南無阿弥陀仏

なもあみだぶつ

南無阿弥陀仏を名号」といいます。名号とは名前という意味です。つまり南無阿弥陀仏は阿弥陀如来のお名前ということです。
どうして、「阿弥陀仏」に「南無」をつけた「南無阿弥陀仏」が阿弥陀如来のお名前ということになるのでしょうか?南無がつくことに意味があるのでしょうか?

「まかせなさい」の南無阿弥陀仏

南無は「帰依(きえ)」という意味です。そこで一般に南無阿弥陀仏とは、「私は阿弥陀仏に帰依します」という、私から阿弥陀如来にむかっての宣言であると考えられてきました。
それに対して親鸞聖人は、南無阿弥陀仏とは「この阿弥陀仏に帰依しなさい、まかせなさい」という、阿弥陀如来から私にむかってのよびかけであると、一般の考えとは反対方向の意味があることをあきらかにしてくださったのです。

先回りの南無阿弥陀仏

阿弥陀如来は、私が「お助けください」と頼んでからようやくすくいに来てくれるような仏さまではありません。私が阿弥陀如来に気づきもしなかったときから「この阿弥陀にまかせなさい、かならずあなたをすくいとります」とよびかけ続けてくださっていた、先回りの仏さまなのです。
つまり阿弥陀如来という仏さまは、南無してくださる(よびかけてくださる)仏さまなので、南無阿弥陀仏がそのまま阿弥陀如来のお名前ということになるのです。「南無阿弥陀仏」は阿弥陀如来からのよびかけなのです。

「はい、おまかせします」の南無阿弥陀仏

「南無阿弥陀仏」が阿弥陀如来からのよびかけならば、私のとなえる南無阿弥陀仏はどういう意味になるのでしょう。私が阿弥陀如来にむかって、「阿弥陀にまかせなさい」といっているのでしょうか?
こんなたとえがあります。赤ちゃんが「ママ」という一言を発するようになるのは、母親が自ら「ママですよ」とよびかけ続けた結果です。
それと同じように、いま私が南無阿弥陀仏ととなえているのは、阿弥陀如来が、さまざまなご縁を通じて南無阿弥陀仏とよびかけ続けてくださったからに他なりません。
つまり私のとなえる南無阿弥陀仏は、阿弥陀如来からの「この阿弥陀にまかせなさい」に対する「はい、阿弥陀さまにおまかせします」なのです。

嘘ではない方便~阿弥陀如来のお姿とご本尊~

かたちのない境地から、かたちのある境地へ

阿弥陀如来の本質は「法性法身(ほっしょうほっしん)」であると説かれます。色もかたちもなく言葉で表現することも認識することも不可能な、真実のさとりそのものということです。それは煩悩に満ちた私たちが接点をもつことのできない境地です。しかし法性法身は、煩悩に満ち、迷い苦しむ私たちを放置するようなことはありません。必然的に、私たちをすくおうと活動してくださいます。その活動として、認識不可能な境地から認識可能なかたちをとってあらわれてくださったのが、阿弥陀如来という仏さまです。

方便法身は真実の仏さま

このかたちをとってあらわれてくださった阿弥陀如来を、法性法身に対して「方便法身(ほうべんほっしん)」といいます。
法性法身が活動するすがたが方便法身です。そして何よりも法性法身に接点をもちえない私がいるからこそ、方便法身の阿弥陀如来があらわれてくださったということです。