4、お浄土までの距離は?

「十京光年」!!

大阪工業大元教授の山内俊平氏が計算したお浄土までの実際の距離だそうです。

「京(けい)」は「兆」の上の単位。つまり1016。(10の16乗)
光が真空中を一年間かけて進む距離が九兆四千六百キロメートル。(一光年)

つまりお浄土まで行くのに、光の速度で進んだとして、
一億年の十億倍かかる距離だそうです・・・。

参考)http://ameblo.jp/seapock/entry-11044290633.html

お浄土の距離は、
大経には、
法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ。
(『大経(仏説無量寿経)』 註釈版28頁)

そして、阿弥陀経には、
これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ
(『阿弥陀経』 註釈版121頁)

と説かれており、お浄土は「十万億の仏土」過ぎた非常に遠い遠い世界と表現されています。

一方、観経では、
阿弥陀仏、此(ここ)を去ること遠からず
(『観経(仏説観無量寿経)』 註釈版91頁)

と示され、阿弥陀さまはそう遠いところには存在されていない、つまり身近なところにおられる、とあります。つまり阿弥陀さまがおられるお浄土も身近なところにある、ということになります。

お浄土は遠い遠いはるか彼方の存在なのか?
お浄土は意外と身近な存在なのか?

 

「こころ」のあり方に問題があるような気がする今日この頃です。
(終わり)

  1. 浄土は苦しみの無い世界?
  2. そもそも浄土ってあるの?
  3. 賢者?愚者?
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3、賢者?愚者?

浄土真宗の教えは「他力」です。つまり「自力無功」。
これは「往生のために自らの力は何ら役にたたないこと」を意味します。

「他力」の教えは、親鸞聖人が到達した結果であり結論ですが、そこに至るまでの比叡山の20年間の修行は「自力」でした。

親鸞聖人の考える「自力」とはどういうものだったのか?
中央仏教学院長「白川晴顕(しらかわはるあき)」先生が書かれた『親鸞聖人と超常識の教え(永田文昌堂)』から引用させていただきます。

(略)一般的に自力といえば、往生のために自らの力を励み努力することのように思われがちですが、決してそうではありません。
(略)
自力とはわが身や励んで得た善根功徳をあてにし、たよりとして、それを往生のために役立たせようと「はからうこころであることになります。

(略)
自力と他力は対立するものではなく、他力は自力を包摂(ほうせつ)する立場にあり、他力(阿弥陀如来の大悲)のはたらく場が自力の世界であることを示すものです
二十年間の比叡山時代は、聖人にとって真実が得られないという苦悶の中で、挫折や絶望を抱かずにはおられなかった世界です。
そして自らをあてにして「はからいのこころ」をもって励む自力の限界を身をもって知らされた世界であったともいえます。
このことと、私たち人生の中で思いがけない不幸に出逢ったり大きな壁にぶち当たったりして、さまざまな苦難を体験し、それによって挫折や絶望を味わうこととは異質なものではないように思えます。

普段私たちは、自分の知識や理性、常識に照らして、ものごとの価値判断をしていきます。
要は、自分の考える事は正しいと、自分をあてにして生きているわけです。

仏教では、その「自分の考える事は正しいと思ってしまう自分のこころ」を煩悩と言っています。仏教でさとりをひらくという事は、「ものごとをありのままにみること」、
浄土真宗的に言えば、「阿弥陀さまと同じものの見方」ができるようになることです。

親鸞聖人は、私たちに「阿弥陀さまと同じものの見方をしろ」とは一言も言われておりません。ただ、「阿弥陀さまと同じものの見方ができない」愚かな私であると気付かされることの大切さを教えてくださっています。自分の知識、理性、常識がいかにあてにならないか、気付くことの大切さを教えてくださっています。

お釈迦様は、自らの愚かさを嘆いて教団を去ろうとしたお弟子(周利槃特)に、こう言われたそうです。※後にこのお弟子さんは”さとり”をひらかれたそうです。

自分の愚かさを知る者こそが、智慧あるものなんだ。
自分の愚かさに目を向けず、自分が賢いと思う者こそを愚者と言う。
おまえは自分が愚かだと、すでに知っているじゃないか。

そして親鸞聖人は、晩年(88歳頃)、『正像末和讃』にこう書き足されております。

よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを
善悪の字しりがほは おおそらごとのかたちなり
『正像末和讃 自然法爾章 注釈版622頁』
(意訳)
物事に善悪の価値判断ができない人は、真実のこころを持ち、
あたかも善悪を知っているかのような素振りをする人は、嘘・偽りの姿にすぎない

私が生きていく上でせざるを得ない価値判断の基準は、煩悩にまみれた私自身です。
私自身にとって都合の良い見方で判断しているにすぎません。

阿弥陀さまの真実のものの見方が知らされて行く中に、それまで正しいと思っていた物の見方の間違いに気付かされていく。
そういう「気付き」の積みかさねの日暮らしの中で、「信心」、すなわち

自分の中に往生するために役立つもの、あてになるものが何一つないと知らされ(機)
また阿弥陀さまの本願のはたらきにすべてをまかせるしかない。(法)
(二種深信)

という”こころ”がいただけるんじゃないかな、と、そんな風に思う今日この頃です・・・。

最後に白川先生のご法話を紹介させていただきます。
(続く)

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  2. そもそも浄土ってあるの?
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  4. お浄土までの距離は?

2、そもそも浄土ってあるの?

「お浄土」は私たちが臨終を迎え、生まれて往く世界であるとともに、
そこには阿弥陀如来がおられ、私たちを救う活動をされている、その活動の源(みなもと)でもあるという二つの意味があります。
浄土真宗では「死後の世界」を「お浄土」と表現しています。

先日、宝満寺の常例法話でお話し下さった西原先生は、
一般的な仏教は、”因”から”果”を説く。
しかし浄土教はまず”果”があり、そこから”因”を説く

という言い方をされていました。

一般的には、何かをしたら(因)それに応じて結果がある(果)、という考え方をします。
でも浄土真宗では最初に「果」である「死後の世界」つまり「お浄土」を示します。

浄土真宗では、かなりおおざっぱですが、

阿弥陀如来は生きとし生けるものすべてを、間違いなく浄土に救い摂る」という願いを、わたしの為にたててくれている。

お浄土は間違いなくあるんだから死んだ後のことはつべこべ悩まずに、阿弥陀如来におまかせしとけ!

死んだ後のことを考えなくてもいいし、死んだ後のことを考えるのは無意味だよ!
生きている今を精一杯生きようよ!

ということ、つまり、

「死んでからのことを考えるのではなく、私が生きているたった今、この瞬間を、どのように生きるか・過ごすか、そして私自身が死ぬまでの時間をどのように生きるか・過ごすか、のほうがよっぽど重要だし、意味があることですよ。」

と説いているんじゃないかと思うんです。

死後の世界(後生)のことに悩む必要が無ければ、生きている間(今生)のことに集中できる。
後は自分の人生を歩めばいい。やりたいこと、やるべきことをやればいい。
もちろん、阿弥陀さまへの感謝の気持ちは忘れずに。(称名報恩)
えっやりたいこと、やるべきことがわからない?
阿弥陀さまは死んだ後の面倒は見てくれますが、生きている間の面倒は見てくれません。
それこそ間違った意味での「他力本願」になっちゃいます。
自分の人生なんですから、自分でなんとかするしかありません。
ただ進むべき方向はおのずと確定していると思います。
どんな仕事をしてようが、裕福だろうが、貧乏だろうが、
仏さまの大地にしっかりと根ざした確固たるよりどころを得て歩むお念仏の人生です。
そして、どんな人生を送ろうが、成功しようが失敗しようが、ぼけて死のうが、のたれ死のうが、死んだ後は必ず!お浄土に救い摂ってくれます。救い摂らざるにはいられない仏なんです。

 

問い)「お浄土ってあるんですか?」
この質問は
問い)「死後の世界ってあるんですか?」
と同義です。

あるご住職はこう答えたそうです。
わしゃ往ったことないからそんなこと知らん!
きっとこのご住職にとって死んだらお浄土に往くのが当たり前だったんでしょう。
「お浄土」すなわち「死後の世界」、「ある」とも「ない」とも答えない。
考えても無意味な、考えても永遠に答えの出せない死んだ後のことなんてどうでもよかったんでしょう。
親鸞聖人のおしえを知識・学問(教学)としてではなく、自らの人生に活かされ実践されているこのご住職を、僕は、信心獲得されたすばらしい真の念仏者だと思います。

僕はこの問いに、このご住職のように答えられるか、いまだ自信はありません・・・。
きっといろいろ理屈をこねちゃいそうな気がする僕がいます・・・。
(続く)

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1、浄土は苦しみの無い世界?

お浄土はよく、金とか銀とか瑠璃(るり=ラピスラズリ)などの宝石で荘厳され、
「大経(仏説無量寿経)」では「安楽」、
「阿弥陀経」では「極楽」すなわち「楽しみ極まりない世界」という書き方がされています。

現在、中央仏教学院長であります「白川晴顕(しらかわはるあき)」先生が書かれた
親鸞聖人と超常識の教え(永田文昌堂)』という本の中で、白川先生の師である「村上速水(むらかみそくすい)」先生が、お浄土について述べられたことばが書かれています。

お経の上には、浄土のことを「安楽」とか「極楽」と表現されている。しかし、その本来の性質は、決して私たちが考えるような安らかで楽しみが多いというような性質ではない。
「安楽」「極楽」に対して言葉を当てはめれば、「非苦非楽(ひくひらく)」、すなわち苦しみに非(あら)ず、楽しみに非(あら)ずという性質である。
したがって、このような浄土は、私たちが心で思うこともできないために不可思議であり、
心で思うことができないということは、それを口で説くこともできないために不可説である。
これが本来の浄土の性質である。
しかし、そういう浄土であれば、私たちにその存在を知ってもらえない。
そこで、本来不可説なものを私たち凡夫の感情に合わせて表現されているのがお経の説示である。

そして白川先生はこう書かれています。※若干略しています。

私たちが生きているときに、浄土の存在を考えていく場合、(略)
その時私たちはどうしても、私自身のものの見方で浄土を考えようとします。
しかし、本来の浄土は決して私たちの欲望の延長上に存在する世界ではない・・・(略)

白川先生のおっしゃるとおり、
私自身が生きている時に、「お浄土」の存在を確かめておくこと!
とても大切だと思います。
「死ねば(お浄土に往けば)楽になれるんですか・・・?」
「死ねば苦しみのないお浄土に往けるのですか・・・?」
という安易な考えの方に応えるためにも。
(続く)

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帰れるふるさと

テレビのニュースによると、今日明日くらいから、ふるさとへ帰る人達の帰省ラッシュがはじまるそうです。

今朝、寳満寺さんの本堂の中の掃除をしていると、10匹近くのスズメバチが死んでいるのを見つけました。
実は七日法事が始まる前、7月の後半位に、本堂近くにあったスズメバチの巣を駆除していました。
きっと帰る場所を失ったスズメバチ達が、帰る場所を探して、本堂に迷い込んだあげく、力尽きて死んでいったんだと思います。

「帰れるふるさと」があるって、すばらしいことだと、ふと思った今日この頃です・・・。

普段私達は、自発的に「生きている」「私の『いのち』は私のもの」と思いがちですが、
仏教では「私のいのち」は、「さまざまなご縁によって生かされている『いのち』」です。
私は「いのち」をいただいているわけです。

子供の頃、
「死んだらどうなるんだろう・・・」
なんて事を考えたりしたことがありました。

「私の身体(からだ)」(つまり「私を構成している物質」)は、さまざまなご縁によって今この瞬間、たまたまこういう姿をいただいておりますが、「死んだとき」すなわち、その「ご縁が尽きたとき」には、「私を構成していた物質」に戻るわけです。
よく「土に帰る」なんて言います。

そして「私のいのち」も「さまざまなご縁によっていただいた『いのち』」と味あわせていただきますと、「そのご縁が尽きたとき」には、無くなるわけでもなく、どこかへ行くわけでもなく、「私の身体」同様、ただ元に戻るだけです。

私を私たらしめてくださった「いのちの世界」「いのちのふるさと」へと戻るだけです。
だから、決して「いのち」が無くなるわけではないと思うんです。

7月の寳満寺の常例法話に来て下さった純心寺の曽我先生が「いのち」を「海の泡」に例えられてお話くださいました。

海の水が岩にうちつけると泡ができます。
「すぐ消えてしまう泡」「しばらく保つ泡」。いろいろな「泡」があるけれども、
その「泡」は無くなるわけではない。ただ大いなる海にまた還るだけです。

浄土真宗では、その「大いなる海」「『いのち』が還る『いのちのふるさと』」を
「お浄土」
とよんでいます。
だから、「お浄土に還らせていただく」(還浄)という言い方をします。

「帰れるふるさと」があるって、すばらしいことだと、思った今日この頃でした・・・。
南無阿弥陀仏。