2012年8月常例法話~森繁久弥の涙~

今日は宝満寺さんの常例法話。
今日のご講師は、千葉県柏市の西方寺ご住職 西原祐治 先生でした。
中でも森繁久弥さんが「屋根の上のバイオリン弾き」という公演で、唯一泣いてしまったことがあった、というお話が印象的でした。

芝居がはじまったのに、最前列の女の子が、ずっと下を向いたまま・・・。「いねむり」をしていた。
それを見た森繁さんやその他の俳優さん達は、やはりおもしろくない。
その女の子を「起こしてやろう!」と、舞台上から、その女の子の近くに行くたびに、
「ドン!ドン!」と音高く舞台の床を踏みつけていた。
しかし、それでも女の子は起きようとしない。
結局芝居が終わるまで、起きなかった・・・。

そして、アンコールが終わり、舞台が明るくなって、舞台あいさつをしようとした時はじめて、森繁さんは、立っていた女の子の顔が見えた。

その女の子は顔を上げていたが、両目は閉じたまま。
その女の子は全盲だった。
居眠りに見えたその女の子のうつむいていた姿は、両耳に全神経を集中させ、見ることが出来ない芝居を、必死に観(み)ようとしていた姿だった・・・。

それを知った森繁さんは、舞台上で泣きながらその女の子に謝罪した・・・。

というお話でした。

その時の森繁さんのこころを思うとき、間違いなく、心からの後悔があったことと思います。
「後悔」は「反省」につながり、そしてそれは「何とおろかな自分だったんだ・・・」という「気づき」につながります。

智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし
(『正像末和讃』 注釈版606頁)

浄土真宗は、「智慧の念仏」である名号のはたらきによって、「信心の智慧」が具(そな)わり、
信心によっていろいろなものに「目覚めさせていただく教え」「気付かせていただく教え」です。

仏さまの真実のものの見方が知らされていく中に、それまで正しいと思っていた見方の間違いに気付かされていく。
「何とおろかな自分だったんだ・・・」と気付かされていく。

親鸞聖人は、『御消息』の中で、師法然聖人の下記のおことばを引用されて、
「たしかにうけたまはり」とおっしゃっております。

愚者になりて往生す
(『親鸞聖人御消息』 注釈版771頁)

「愚者と思える自分でありたい」そう味あわせていただきました。

西原先生ありがとうございました。

西方寺 西原先生

西方寺 西原先生

しあわせはいつも自分のこころがきめる

宝満寺掲示板2012年8月

宝満寺掲示板2012年8月

しあわせはいつも自分のこころがきめる
(相田みつを)

8月の宝満寺の掲示板のことばです。僕が選びました。
法務員2人が毎月交代で、ことばを選んで書いています。

よく「しあわせを求める」なんて言い方をします。
でも「しあわせ」って「求めるもの」じゃないような気がします。
仏教では「求めること」ということは「欲望」。
求めているうちは、求めても、求めても、きりがありません。

「しあわせ」って、「いただくもの」「気づかせていただくもの」そんな気がします。

同じ出来事を経験しても、その受け止め方、感じ方は人それぞれです。
以前、掲示板に、

人生における苦しみはすべて如来のはげましである
(曽我量深 師)

ということばを選んだことがありました。このことばを、
「仏さまがわたしの(目覚めの)ために苦しみを与えてくれている」
と味あわせていただきますと、
実はもうたった今、すでに、
「仏さまはわたしにたくさんのしあわせ””与えてくれている」
と思うんです。
「しあわせ」と思えないのは、本当はもうすでに届いている「しあわせ」に、
気付けていないだけのような気がするんです。
「苦しみを如来のはげまし」と受け取れるこころにしあわせはある、
そんな風に思うんです。

そしてたった今ここに、「自分が考えるしあわせ」を追い求めざるにはいられない僕がいます。
「しあわせになるにはまず結婚することダ!」と考えている独身の僕がいます・・・。
友人達の例を見る限り、結婚したらしたで、苦労するのは目に見えているのですが、
それでも、求めざるにはいられない凡夫の僕がいます・・・。

最後に僕の一番好きな親鸞聖人のご和讃を一句。
このブログの名前でもあります。葬儀のときにも必ずよむご和讃です。

本願力(ほんがんりき)にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし

(高僧和讃 注釈版580頁)

浄土真宗的「無記の問い」

3年ほど前、私が京都の中央仏教学院(以後略して”中仏”と呼びます)という浄土真宗の専門学校に通っていた時、ふと

亡くなった赤ちゃんは、お浄土に往けるのか?

という疑問が沸いた時がありました。赤ちゃん
浄土真宗の教義に詳しい方ならご周知のとおり、

信心正因(しんじんしょういん)」といって、

「往生浄土」の「因」は「信心」であります。
※詳しい説明はあえて避けます。
赤ちゃん(0歳~1歳位でしょうか?)は、お念仏はもちろんできないでしょうし、ましてや信心をいただいているとはどうしても思えませんでしたから。

そこで、当時中仏のご講師の一人だった、
”新門さま”(※浄土真宗本願寺派時期ご門主です)にこの質問をぶつけてみました。

新門さまは少し悩まれたあと、

その質問は何か役にたつのかな?中仏を卒業するまで、考えてみるといいよ。

と言われ去っていかれました。
当時の私は、なんだ答えられないのか、と明確な回答を得られなかったことに、かなり不満でした。

しかし今考えてみますと、この質問は、あきらかにおかしな質問です。

まず、「仏教」そして「浄土真宗」の「おしえ」は、この私自身以外の誰のための教えでもない、という事です。
仏教は「私が」目覚めるためのおしえです。
そして浄土真宗は「この私自身」が、信心をいただき、お念仏申しながら、目覚めさせていただくおしえです。
よって、「亡くなった赤ちゃん」という私にとっての「他人」の信仰についてどうこう言うのはナンセンス(無意味)です。
「赤ちゃん」を「キリスト教を信じている人」「となりのあの奥さん」とかに置き換えてみるとわかりやすいかもしれません。

そしてもうひとつ、この質問のおかしな点は、「~が、お浄土に往けるのか?」と、「お浄土」という存在をはじめから肯定して(認めて)質問している点です。
この質問に、「はい」にしろ「いいえ」にしろ答えた時点で、「お浄土」という存在を認めることになります。
この質問を「浄土を認めていない人」がすることや、この質問に「浄土を認めていない人」が答えることは、その質問をした時点、その質問に答えた時点で、「浄土の存在を認めたことになり、矛盾していることがわかります。
※「無記の問い」とか「無記」という単語でググるとインターネットで検索すると、詳しい説明のページがでてくると思います。

以上のことから推察するに、上記の質問に対し、新門さまは、答えられなかったのではなく、あえて答えなかったんではないでしょうか。

ここで、私(僕)に赤ちゃんがいて、不幸にしてその我が子を亡くした場合のことを想像してみます。※いまだ独身ですが妄想してみます(笑)

もし、私がキリスト教信者だったならば、我が子はきっと天国に行ったと思うでしょう。
私にはそもそも「お浄土」という概念が無いでしょうから。

もし、私が我が子(赤ちゃん)の死をとおしても、「さびしい」「かなしい」という感情で終わってしまう私だったとしたら、何も得るものがなかったなら、苦しみがつのるばかりで、「我が子がお浄土に往った」と言われたところでとても信じられてなかったでしょう。

そして、もし愛しい我が子(赤ちゃん)の死をとおして、私がいのちの尊さいのちの無常さ、に気づかせていただくことができたのであれば、間違いなく我が子は私にとっての「仏」であり、私からすれば他の人が何と言おうが、我が子すなわち「赤ちゃん」はお浄土に往ったことになります。

質問したその当人の信仰とか心持ち?次第で答えが変わってくる問い。
仏教的に言えば「空(くう)」でしょうか?

「(我が家の)右隣のお宅の奥さんは幸せでしょうか?」
という質問を、(我が家の)左隣の奥さんにしているのと同じことです。
この質問がいかに無意味かわかるかと思います。

信心正因(しんじんしょういん)

の「信心」は、

赤ちゃんの「信心」じゃありません。私自身の「信心」です

質問に答える時には慎重に・・・。
おかしな質問に答えると、答えも必ずおかしくなります。
「答えないこと」もときにはまた答えです。

蓮の花(はすの花)

以前、新盆にあたられている寳満寺(宝満寺)さんのご門徒さん宅をお伺いした時のこと。
蓮の花のおかざりにはどういう意味があるのか?
というご質問をいただいた事がありました。

お寺ではたくさんの「蓮の花」を見かけます。
浄土真宗のご本尊、阿弥陀如来が立たれているのも蓮の上ですし、
また教典・聖典の中にも、「阿弥陀経」はもちろん「正信偈」にも「蓮の花」がでてきます。
「蓮華(れんげ)」と書いてある場合もあります。

仏教では「泥中の蓮華(でいちゅうのれんげ)」としてそこにひとつの意味を持たせています。

蓮の花は、決して美しい環境とはいえない泥の中に生えて、それでも泥に染まらず、とても美しいきれいな花を咲かせます。

泥は私たちがいるこの娑婆世界をあらわしています。
泥は私たちの「煩悩(ぼんのう)」をあらわしています。
そして「花」は仏教でいう「さとり」をあらわしています。
「花」は「物事をありのままに見ることができる、美しい清らかな心」をあらわしています。

つまり仏教では「このどろどろした娑婆世界で、美しい清らかな心をもった目覚めた者になろう」と蓮の花を意味づけています。

しかし「煩悩を無くし、さとりをひらく」ことが出来ればいいのですが、
やはり圧倒的大多数の人が、泥の中にいれば泥に染まってしまいます。

でも親鸞聖人はそれが悪いことだとはおっしゃっておりません。

正信偈の中に、

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味

とあります。わかりやすく意訳しますと、

よく信心をおこして、阿弥陀様の救いを喜ぶ人は、清い水をもつ川、泥水をもつ川、あらゆる川の水が海に流れ入って一つの味の澄んだ水になるように、煩悩を断たないままですべて等しく悟りを得ることが出来る。

という意味です。

そして正信偈はこう続きます。

摂取心光常照護 已能雖破無明闇
貧愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

ここで親鸞聖人は、煩悩を「雲(くも)」「霧(きり)」におおわれた「闇(やみ)」に例えられております。
「闇」をうちやぶるのは「光」意外にありえません。
ひとすじの太陽の光がさせば、「闇」は一転、明るい世界です。
「闇」が「闇」をうちやぶるのではなく、「闇」は「闇」のままで、
太陽の光によって明るい世界へと変えられていきます。

闇(煩悩)に囲まれた私たちが、自らその闇(煩悩)を打ち消すことは非常に難しいことです。
しかし、闇(煩悩)はそのままで、阿弥陀さまの本願の光に包み込まれて、光の世界へと変えてくれる、親鸞聖人はそうお説きくださっております。

最後に、
「蓮の花」というのは、きれいな澄んだ清流のような水のあるところには決して咲かないそうです。
「泥の中」にしか咲かないそうです・・・。

そして、花が咲くには、太陽のひかりが必要なのは、言うまでもないですね・・・。

蓮の花

宝満寺隣のため池に咲く蓮の花

お盆のいわれ(餓鬼道に落ちるのは?)

お盆は正しくは「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といいいます。
「盂蘭盆会」というのは「盂蘭盆経」というお経に説かれた物語に基づいています。

お釈迦様のお弟子に目蓮という方がいました。目蓮尊者と呼んでいます。
目蓮は心のやさしい方で、亡くなった母の事が忘れられず、いつも育ててくれた恩を感謝していました。
ある日、目蓮は、その亡くなった母がどこに行っているのか神通力で探してみました。
神通力というのは目に見えないところを見通せる力のことです。

そしたら餓鬼道に墜ちて、飲まず食わずで皮と骨ばかりになって苦しんでいるのを発見しました。
餓鬼道というのは、むさぼりの心や行為をした人が死んで生まれ変わる世界とされる、
地獄みたいな、ところだと思ってください。

目連は悲しんで、食べ物を、亡き母のもとへそれを持って行きました。
母は食べようとしますが、口に入れる前に燃えてしまい、食べる事ができません。

目蓮はさらに神通力でその母の餓鬼道に墜ちなければならない理由を知ろうとしました。
そこには、生前目蓮の知らなかった母の一面がありました。

母は目蓮にこそ、この上もなくやさしい人でしたが、他人に対しては、ものをとりこむ一方で、施したり、恵むという事を一切しない人でした。

つまり目蓮を育てるため、目蓮を食べさせたいがために、母親が餓鬼道に堕ちたのだと知った目連は、お釈迦様になんとか自分の母親を救えないものかと、泣きながら尋ねました。

するとお釈迦様は、修行僧達の修行が7月15日に終わるので、この7月15日に、お釈迦様のおられる塔にお供物を盆にもってささげて、すべての修行僧達に、ごちそうをふるまいました。

するとその結果、目連尊者の母親は餓鬼道から救われたそうです。

それを知った修行僧達は大いに喜び、歓喜の踊りを踊ったということです。
この踊りが「盆踊り」の始まりだといわれています。
それ以来、7月15日が先祖を偲ぶ日として定着していったようです。

以上がお盆のいわれとなります。

そして実は、「盂蘭盆」という言葉はもともと古代インドの言葉なんですが、
さかさま」という意味があるそうです。

ここで考えてみますと、
目蓮は、母親が我が子かわいさに、私(目蓮)(だけ)を食べさせたいがために餓鬼道に落ちたことを知りました。
ではその当の目蓮は・・・、
実は、その当の目蓮でさえ、「『母親(だけ)』をすくえないものか」とお釈迦さまに泣きながら頼んでいます。

このことは、目蓮自身も母親と同じ餓鬼道に墜ちる身であるということを教えてくれています。

「母親が餓鬼道に落ちた理由」を目の当たりにしながら、
目蓮はやはり、餓鬼道に落ちた全てのものではなく、母親(だけを)を救おうとしていたのです。

これは、私自身にも当てはまるのではないでしょうか?

私がお盆の時に偲ぶ・思うのは、せいぜい近しい方だけではないでしょうか?
私の近しい方以外(他人)を偲んだり、思うことはそうないのではないでしょうか?

つまり、私自身は目蓮同様、目蓮の母親同様、どうあがいても餓鬼道に墜ちる身であるということを教えてくれています。

「盂蘭盆会」=「さかさま」

お釈迦さまは、すべての修行僧達にごちそうをふるまう・・・。

う~ん・・・深いと思いませんか・・・?
(※偽経とは言われていますが・・・。)

帰れるふるさと

テレビのニュースによると、今日明日くらいから、ふるさとへ帰る人達の帰省ラッシュがはじまるそうです。

今朝、寳満寺さんの本堂の中の掃除をしていると、10匹近くのスズメバチが死んでいるのを見つけました。
実は七日法事が始まる前、7月の後半位に、本堂近くにあったスズメバチの巣を駆除していました。
きっと帰る場所を失ったスズメバチ達が、帰る場所を探して、本堂に迷い込んだあげく、力尽きて死んでいったんだと思います。

「帰れるふるさと」があるって、すばらしいことだと、ふと思った今日この頃です・・・。

普段私達は、自発的に「生きている」「私の『いのち』は私のもの」と思いがちですが、
仏教では「私のいのち」は、「さまざまなご縁によって生かされている『いのち』」です。
私は「いのち」をいただいているわけです。

子供の頃、
「死んだらどうなるんだろう・・・」
なんて事を考えたりしたことがありました。

「私の身体(からだ)」(つまり「私を構成している物質」)は、さまざまなご縁によって今この瞬間、たまたまこういう姿をいただいておりますが、「死んだとき」すなわち、その「ご縁が尽きたとき」には、「私を構成していた物質」に戻るわけです。
よく「土に帰る」なんて言います。

そして「私のいのち」も「さまざまなご縁によっていただいた『いのち』」と味あわせていただきますと、「そのご縁が尽きたとき」には、無くなるわけでもなく、どこかへ行くわけでもなく、「私の身体」同様、ただ元に戻るだけです。

私を私たらしめてくださった「いのちの世界」「いのちのふるさと」へと戻るだけです。
だから、決して「いのち」が無くなるわけではないと思うんです。

7月の寳満寺の常例法話に来て下さった純心寺の曽我先生が「いのち」を「海の泡」に例えられてお話くださいました。

海の水が岩にうちつけると泡ができます。
「すぐ消えてしまう泡」「しばらく保つ泡」。いろいろな「泡」があるけれども、
その「泡」は無くなるわけではない。ただ大いなる海にまた還るだけです。

浄土真宗では、その「大いなる海」「『いのち』が還る『いのちのふるさと』」を
「お浄土」
とよんでいます。
だから、「お浄土に還らせていただく」(還浄)という言い方をします。

「帰れるふるさと」があるって、すばらしいことだと、思った今日この頃でした・・・。
南無阿弥陀仏。

七日法事(新盆法事)法話②

今日でようやく七日法事が終了。
今年は毎日たくさんのご門徒さんがお参りくださいました。
暑い中、早起きをしてお参りくださいましたご門徒さん達には本当に頭が下がります。

七日法事の六日目の昨日、自分が法話をする番。
話す内容が直前までまとまらず・・・。
早起きしてお参りくださったご門徒さんに対し、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。今後への反省をこめて、あえて原稿を後悔公開。

「法話とは?」

浄土真宗の伝道は「仏徳讃嘆」「自信教人信」という言葉につくされます
浄土真宗では、法話を聴聞することが大事にされてきました。
法話とは、阿弥陀如来の救いの法を讃嘆することです。
浄土真宗本願寺派 綜合研究所

「布教師の先生から教わった事」

下記のどの話題にもさわっていない話は法話ではない。

  • 本願
  • 念仏
  • 浄土
  • 成仏

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新盆の棚かざり

「新盆」

銚子では、「しんぼん」と発音します。全国的に見ると、「にいぼん」「あらぼん」と発音する地方もあるかと思います。

呼び方が地方地方でまちまちなように、新盆の迎え方も地方によってさまざまかと思います。
かつては、地方はそれぞれ独立した”国”のようなものでしたから、各地方で言葉が違ったように(※方言)、新盆の迎え方にも地方で違い・特色があるのは当然かと思います。

銚子では新盆を迎えるにあたり、自宅に「棚」をかざるのが一般的です。(※新盆棚)

浄土真宗のご法義に詳しい方ならご周知のとおり、浄土真宗では、新盆だから、お盆だからといって、棚をかざることはしません。

寳満寺さんでは、新盆を迎えるにあたり、6月から7月にかけて一軒一軒ご門徒さん宅を訪問し、お寺の新盆の行事等について説明させていただいています。
ここが難しいのですが!?その際、上記の浄土真宗では棚をかざらないことを伝え、あとはご門徒さん自身に、棚をかざるか・かざらないかを選択していただいてます。そして、飾るのであれば出来るだけ簡素にかざっていただくようにお願いしています。

確かにご門徒さんの立場にたってみると、いくら寺が「かざらなくてもOK」といったところで、棚をかざるのが一般的なここ銚子において、故人にご縁のあった方がお参りにきてくださった際、「この家は、新盆なのに棚もかざってない!世間知らずな家だ!」なんて思われなくもありません。

個人的には、銚子においては、この状態がベストだと感じています。

仏教では「『正解』は必ずしもひとつとはかぎらない」と思うからです。
※浄土真宗も仏教である以上同様だと思います
とかく現代では「どちらが正しいか?」と正解にこだわってしまう傾向、ものごとの白黒をはっきりさせたがる傾向がありがちですが、仏教の教えは、画一的ではないはずです。

八万四千の法門」という言葉があります。釈尊は相手に即して教えを説かれました。
その人その人にあった教えを説いたので、教えが八万四千になった、という風に言われています。元来仏教にはいろんな教えがあります。(※このことが色んな宗派がある理由です。)

ここ銚子において新盆にあたられている浄土真宗のご門徒さんが

  • 「新盆棚を飾る」のも正解
  • 「新盆棚を飾らない」のも正解
  • 「どっちが正解なのか、よくわからない」のも正解

と思う今日この頃です。