自分から 回っている気の かざぐるま

私達は普段、あらゆるものごとを、「私の立場」から考えていきます。

でも、「私の知識」、と思っている知識は、
もともと、両親から、先生から、友人から、他人から、いただいたものです。

「私のいのち」、と思っているいのちは、
もともと、両親から、いただいたものです。
そして、他のいのちをいただくことでのみ生きられるのが私のいのちです。

私達は普段、「自(分)」の「力」で生きていると思っています。

でも別の言い方をすれば、

私達は、「他」の「力」の「おかげで」で生かされている。
とも言えます。
要はあらゆるものごとは、

「おかげさま」

です。

悩んだときに、ちょっと立ち止まって、

「自(分)」の方からだけの見方をしている私がいないか、
「他」の方からの見方を忘れている私がいないか、
確かめてみるのもいいんじゃないかな・・・と思う今日この頃です。

 

六波羅蜜(ろくはらみつ)?

お釈迦さまが生きていた頃はもちろん出家信者と在家信者がいたはずです。
「対機説法」と言われるように、
出家信者に対してはふさわしい修行法を説き
在家信者に対してはふさわしい実践法を説いていたはずです。

お釈迦さまが亡くなると、

出家信者は自分達だけで教団をつくり、出家信者に対して説かれた教えだけをまとめて教典をつくります。
だから初期仏教教典には、在家信者に対する修行法、実践法が書かれていません。

後に、
若者中心の進取派からなる「大衆部」と
長老中心の保守派からなる「上座部」とに分裂がおきます。(根本分裂)
その後、最終的に二十くらいの部派にわかれます。

この流れをくむのが現在の「上座部仏教」です。

一方、在家信者達は、
お釈迦さまの遺骨を祀(まつ)った「ストゥーパ(仏塔)」を作り礼拝しました。

ちなみに、お釈迦さまの遺骨を荼毘(だび)に付したときできた遺骨を
「舎利(しゃり)」と言います。
※寿司屋の「シャリ」の語源です。

在家信者達の仏塔信仰がさかんになる中、
出家信者たちの作る教団は、学問仏教、難解を極める哲学的な方向になっていきました。

そして、在家信者達の中からお釈迦様の根本精神に立ち返ろうという大乗仏教運動が起こっていきます。

その大乗仏教の修行法・修行論
「波羅蜜(はらみつ)」と呼ばれています。
「迷いの此岸(しがん)から悟りの彼岸(ひがん)に渡るための修行法」
という意味です。

この修行法が六種類あるので、
「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と呼ばれています。

  1. 布施波羅蜜(ふせはらみつ)・・・施しの修行 →関連リンク
  2. 持戒波羅蜜(じかいはらみつ)・・・戒を守る修行 →関連リンク
  3. 忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)・・・他人から受ける迷惑を堪え忍ぶ修行 →関連リンク
  4. 精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)・・・努力の修行
  5. 禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)・・・精神統一をする修行
  6. 智慧波羅蜜(ちえはらみつ)・・・智慧をみがく修行

※この六波羅蜜を実践する者を「菩薩(ぼさつ)」と呼んでいます。
※十波羅蜜・・・「方便」「願」「力」「智」を加えたもの。

そして重要なことが、

この修行そのものに執着してはならないということです。

これが難しい・・・というか僕は未だによくわかりません。

浄土真宗では、「六波羅蜜」は、その真似ごとのようなものはできても、
「執着しない心」「はからいの心」を持たず行じる”真の”六波羅蜜の実践は、不可能だ、
という立場です。

「六波羅蜜」は「仏」になるための修行法です。

ちなみに上座部で目指すのは、「仏」ではなく「阿羅漢(あらかん)」です。
※阿羅漢・・・修行者が到達できる最高の境地

大乗仏教では、
仏になるという「目的」よりも、その「過程」の重要性、つまり

「仏」を目指して人生を歩み続けていこう!

ということの重要性が説かれているように思います。

「仏」という、人間が到底到達できそうもない境地をともに目指す者同士には、
到達出来た者、到達出来ない者、
エリートとエリートじゃない者、
といった、人に差をつける考えは生まれてきません。
ともに「仏」にはなれない者同士なんですから。
※現実には人と差をつけてしまいたがるのが人間なんでしょうが・・・。
そこに出家者、在家者の区別はありません。

人間として、仏を目指し、仏の智慧を学び、人間として成長していくこと、

それが、日本の仏教が説く、仏教徒の歩む道だと思う、今日この頃です。

精一杯休む。

生きているということは確実に死に近づくこと。

一歩一歩確実に「死」に向かって歩いている。

「死」がむなしい、無意味なものであるなら、

「死」に近づくにつれ、むなしさ、恐怖感がつのっていくばかり。

 

もし「死」に意味を見いだすことができたら、

「死」が私が滅んでいくことではなくて、

「死」が、

「人として生きてきた私が新たな場所に往き生まれること」、

「私が先に見送ってきた、亡き愛する者とまた会えること」、

そして

「私が残してきた愛する者のしあわせを願い、見守っていくこと」、

と意味を見いだすことができたら、

「死」は決してむなしく、無意味なものでなくなるはず。

そして意味を見いだすことが出来たとき、

「私の死んで行く場所」が、

「むなしく無意味な恐怖の場所」

から

「私の還(かえ)るべき”ふるさと”」に変わる。

私のこころに、「還(かえ)ることのできる”ふるさと”」ができる。

私のこころに、よりどころを得た安心感が生まれてくる。

このとき「救い」は完成する。

 

後は人としての一生を精一杯生きるだけ。

その日その日、目の前のやるべきことを精一杯やっていくだけ。

朝起きて「今日も朝目が覚めたこと」に「ありがとう」。

夜寝る前「今日一日生かされたこと」に「ありがとう」。

一日一日精一杯生きていくだけ。

ひたすら目の前の現実を見て、ひたすら現実を受け入れて生きていくだけ。

ただただ現実を生きる。

世間にはびこる、変なおまじないや変な宗教に逃げることなく。

それでも現実から逃げたくなったら、

仏さまにちょっと甘えてみる。

「そのままでいんだよ。」

「逃げたくなるのが人なんだよ。」

ありのままの私を受け入れてくれる。

そしてまたひたすら現実を生きる。

成功するもよし。失敗するもよし。

仏さまの目からみれば、人生に成功も失敗もない。

そして、縁尽きて人生が終わったら、

あとはおまかせするだけ。

ふるさとに還るだけ。

(ひとりごと おしまい)

 

今日寳満寺の法務は休みでした。
部屋の掃除。
洗濯。
買い物。
サーカー観戦。※勝ちましたね♪
精一杯休みました。(笑)

「戒」は厳守!?

「戒」のことを全然知らなかった浄土真宗僧侶の僕がいましたので、
「戒」についてちょっと調べてみました。

大乗仏教における基本的な「戒(かい)」が5つあります。
「五戒(ごかい)」と言われています。

  1. 不殺生戒(ふせっしょうかい)
  2. 不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
  3. 不邪淫戒(ふじゃいんかい)
  4. 不妄語戒(ふもうごかい)
  5. 不飲酒戒(ふおんじゅかい)

「五戒」は仏教徒であれば守るべき「いましめ」です。
実は「いましめ」の名のとおり、やぶったからといって特に罰則はありません。(大乗仏教)
※初期仏教(上座部)では厳守!
「戒律(かいりつ)」は罰則規定(律)がある。(出家修行者)

「戒」は古代インドの言葉(サンスクリット語)で「シーラ」といい、
「習慣」とか「習慣性」という意味だそうです。
「~するな」
ではなく、
「~しないような習慣を身につけよう」
というのが戒です。

つまり、仏教徒としての道を歩む、ということは、

私が

  1. 私は生き物を殺しません。(不殺生戒)
  2. 私は他人のものを盗みません。(不偸盗戒)
  3. 私は恋人・配偶者以外と性的関係を持ちません。(不邪淫戒)
  4. 私は嘘をつきません。(不妄語戒)
  5. 私は酒を飲みません。(不飲酒戒)

と自らを戒め、こういう習慣を身につけて生きていこう、という志を持ち、
生きていくことです。

 

今の日本で生きていく、生活していくにあたり、
「戒」を完全に守りきることは不可能だと思います。

時には、生き物を殺さざるをえないこともあります。
時には、うそをつかざるをえないこともあります。
時には?酒を飲むときもあるでしょう。

こういう状況のときに、決して開き直るんじゃなくて
私は「戒」をやぶっているんだ、という自覚を持つことが大切なように思います。
「戒」をやぶったときに、
「自分は弱い人間なんだなぁ」と自覚することが大切なように思います。

自分が弱い人間だ、ということに気付けたときにはじめて、
他人の弱さも許せるこころ
が持てるんじゃないかなと思います。

浄土真宗は「他力のおしえ」です。事実上「無戒」です。
ただ、浄土真宗が仏教を名のっている以上、仏教徒である以上、
自らを戒め、志をもち生活していくことは、とても大事だし、必要なことだと思います。
開き直っちゃいけないな、と思う今日この頃です。

蓮(はす)と鶏(にわとり)

泥の中から蓮(はす)が咲く

泥の中から蓮(はす)が咲く

蓮 と 鶏     作 金子みすゞ

泥のなかから
蓮(はす)が咲く。

それをするのは
蓮(はす)じゃない。

卵のなかから
鶏(とり)がでる。

それをするのは
鶏(とり)じゃない。

それに私は
気がついた。

それも私の
せいじゃない。

 

阿弥陀さまの願いは、生きとし生けるものすべてを救うことです。
そして、阿弥陀さまの救いは無条件です。

「善いことをしなさい」とか、
「念仏をしなさい」とか、
「信じなさい」とか、
「自力を捨てなさい」とか、
「~しなさい」という条件は一切ありません。無条件の救いです。

そしてその願いを「南無阿弥陀仏」の名号に込めて届けてくれてます。
あとは、その名号をただ受け取ればいいだけです。
難しいことを考える必要はありません。
届いたらそれが自然と「信心」になって、
届いたらそれが自然と「念仏」になります。

親鸞聖人は、晩年、
何事にもはからうことなく、あるがままをあるがままに受け入れた境地
「自然法爾(じねんほうに)」という言葉で語られています。

他力の教えの真髄だと思います。

お仏壇を買ったことはおどろきなり

お釈迦様がさとられたのが「縁起の法」です。
「因縁正起(いんねんしょうき)」とも言われています。

私がとった行動(果)には必ずその原因(因)と条件(縁)があります。
同じように、
私が感じた思い(果)にも必ずその原因(因)と条件(縁)があります。
そして、
私がとった行動・感じた思い(果)は同時に次の行動・思いの原因(因)になります。

以前、新しくお仏壇を購入したお宅に「入仏式(にゅうぶつしき)」でお伺いしたことがありました。

お仏壇を新しく買ったとき、お坊さんを呼ぶことが多いかと思います。そのことを一般的に、
「魂(たましい)入れ」なんて言い方をしますが、
浄土真宗では、お仏壇にご本尊(阿弥陀さま)をお迎えするという意味で
入仏(にゅうぶつ)」といいます。
「入仏式」とはあらたに仏さまをお迎えするお祝いの法要という扱いです。

今までこのお宅ではお仏壇がなく、最近、おばあちゃんが亡くなったので、それを機にお仏壇を買ったそうです。

ここで少し考えてみますと、

そのお宅の方が「お仏壇を買ったという行為」を結果(果)、と考えますと、
おおまかに言えば、お仏壇を買った理由(因)は、「おばあちゃんの死」でしょう。
ただそれだけではお仏壇を買うにはいたりません。
条件(縁)が必要です。

例えば、わかりやすいところで、

  • お仏壇が家に無いこと。
  • お仏壇を買うだけのお金があること。
  • お仏壇を置く場所があること。

という条件が必要です。そして何よりも必要なのは、

  • 「お仏壇が必要だ」という自らの思い

です。
お仏壇を買うだけのお金があっても、置く場所があっても、
「仏壇なんかいらねぇ」と買わない人はたくさんいるでしょうから。
これ以外にもたくさんの条件が必要になってくるはずです。

そのたくさんの条件がそろったとき、はじめてお仏壇を購入するという行為にいたります。
浄土真宗では、そのたくさんの条件を「ご縁」と言っています。

そして何よりも必要な条件である「お仏壇が必要だという自らの思い」は、結果(果)でもあります。
これまた「たくさんの理由とご縁」により、そう思える自分になっていたという結果です。

つまり、「お仏壇が必要だ」と思うことのできる私に、たくさんの理由とご縁により、
お育ていただいていた、ということです。

 

こう考えますと、

「私がお仏壇を買った」
(自発・能動的な考え方)

ということを言い換えれば、

「私がお仏壇を(亡くなった方を含め色々なご縁により)買わされていた」
もうちょっとましな言い方をすると、(笑)
「私がお仏壇を(亡くなった方を含め色々なご縁により)買わせていただいた」
(受け身・受動的な考え方)

とも言えるわけです。

 

このお宅の方からすれば、
「おばあちゃんが亡くなったから、お仏壇を買った」「当たり前のこと」
だと思っているんじゃないかと思います。

でも実は、当たり前のことじゃないんです。

「お仏壇を買った」ということは、無数にある「原因」そして「条件」がそろわないと決してあり得ない、奇跡とも言える尊い結果なんです。

最後に、どこかで見た、忘れられない言葉を。

「死は必然なり、生はおどろきなり」
(作者不明)

お仏壇はこころの鏡

お仏壇はこころの鏡

4、お浄土までの距離は?

「十京光年」!!

大阪工業大元教授の山内俊平氏が計算したお浄土までの実際の距離だそうです。

「京(けい)」は「兆」の上の単位。つまり1016。(10の16乗)
光が真空中を一年間かけて進む距離が九兆四千六百キロメートル。(一光年)

つまりお浄土まで行くのに、光の速度で進んだとして、
一億年の十億倍かかる距離だそうです・・・。

参考)http://ameblo.jp/seapock/entry-11044290633.html

お浄土の距離は、
大経には、
法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ。
(『大経(仏説無量寿経)』 註釈版28頁)

そして、阿弥陀経には、
これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ
(『阿弥陀経』 註釈版121頁)

と説かれており、お浄土は「十万億の仏土」過ぎた非常に遠い遠い世界と表現されています。

一方、観経では、
阿弥陀仏、此(ここ)を去ること遠からず
(『観経(仏説観無量寿経)』 註釈版91頁)

と示され、阿弥陀さまはそう遠いところには存在されていない、つまり身近なところにおられる、とあります。つまり阿弥陀さまがおられるお浄土も身近なところにある、ということになります。

お浄土は遠い遠いはるか彼方の存在なのか?
お浄土は意外と身近な存在なのか?

 

「こころ」のあり方に問題があるような気がする今日この頃です。
(終わり)

  1. 浄土は苦しみの無い世界?
  2. そもそも浄土ってあるの?
  3. 賢者?愚者?
  4. お浄土までの距離は? ←このページ

3、賢者?愚者?

浄土真宗の教えは「他力」です。つまり「自力無功」。
これは「往生のために自らの力は何ら役にたたないこと」を意味します。

「他力」の教えは、親鸞聖人が到達した結果であり結論ですが、そこに至るまでの比叡山の20年間の修行は「自力」でした。

親鸞聖人の考える「自力」とはどういうものだったのか?
中央仏教学院長「白川晴顕(しらかわはるあき)」先生が書かれた『親鸞聖人と超常識の教え(永田文昌堂)』から引用させていただきます。

(略)一般的に自力といえば、往生のために自らの力を励み努力することのように思われがちですが、決してそうではありません。
(略)
自力とはわが身や励んで得た善根功徳をあてにし、たよりとして、それを往生のために役立たせようと「はからうこころであることになります。

(略)
自力と他力は対立するものではなく、他力は自力を包摂(ほうせつ)する立場にあり、他力(阿弥陀如来の大悲)のはたらく場が自力の世界であることを示すものです
二十年間の比叡山時代は、聖人にとって真実が得られないという苦悶の中で、挫折や絶望を抱かずにはおられなかった世界です。
そして自らをあてにして「はからいのこころ」をもって励む自力の限界を身をもって知らされた世界であったともいえます。
このことと、私たち人生の中で思いがけない不幸に出逢ったり大きな壁にぶち当たったりして、さまざまな苦難を体験し、それによって挫折や絶望を味わうこととは異質なものではないように思えます。

普段私たちは、自分の知識や理性、常識に照らして、ものごとの価値判断をしていきます。
要は、自分の考える事は正しいと、自分をあてにして生きているわけです。

仏教では、その「自分の考える事は正しいと思ってしまう自分のこころ」を煩悩と言っています。仏教でさとりをひらくという事は、「ものごとをありのままにみること」、
浄土真宗的に言えば、「阿弥陀さまと同じものの見方」ができるようになることです。

親鸞聖人は、私たちに「阿弥陀さまと同じものの見方をしろ」とは一言も言われておりません。ただ、「阿弥陀さまと同じものの見方ができない」愚かな私であると気付かされることの大切さを教えてくださっています。自分の知識、理性、常識がいかにあてにならないか、気付くことの大切さを教えてくださっています。

お釈迦様は、自らの愚かさを嘆いて教団を去ろうとしたお弟子(周利槃特)に、こう言われたそうです。※後にこのお弟子さんは”さとり”をひらかれたそうです。

自分の愚かさを知る者こそが、智慧あるものなんだ。
自分の愚かさに目を向けず、自分が賢いと思う者こそを愚者と言う。
おまえは自分が愚かだと、すでに知っているじゃないか。

そして親鸞聖人は、晩年(88歳頃)、『正像末和讃』にこう書き足されております。

よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを
善悪の字しりがほは おおそらごとのかたちなり
『正像末和讃 自然法爾章 注釈版622頁』
(意訳)
物事に善悪の価値判断ができない人は、真実のこころを持ち、
あたかも善悪を知っているかのような素振りをする人は、嘘・偽りの姿にすぎない

私が生きていく上でせざるを得ない価値判断の基準は、煩悩にまみれた私自身です。
私自身にとって都合の良い見方で判断しているにすぎません。

阿弥陀さまの真実のものの見方が知らされて行く中に、それまで正しいと思っていた物の見方の間違いに気付かされていく。
そういう「気付き」の積みかさねの日暮らしの中で、「信心」、すなわち

自分の中に往生するために役立つもの、あてになるものが何一つないと知らされ(機)
また阿弥陀さまの本願のはたらきにすべてをまかせるしかない。(法)
(二種深信)

という”こころ”がいただけるんじゃないかな、と、そんな風に思う今日この頃です・・・。

最後に白川先生のご法話を紹介させていただきます。
(続く)

  1. 浄土は苦しみの無い世界?
  2. そもそも浄土ってあるの?
  3. 賢者?愚者? ←このページ
  4. お浄土までの距離は?

2、そもそも浄土ってあるの?

「お浄土」は私たちが臨終を迎え、生まれて往く世界であるとともに、
そこには阿弥陀如来がおられ、私たちを救う活動をされている、その活動の源(みなもと)でもあるという二つの意味があります。
浄土真宗では「死後の世界」を「お浄土」と表現しています。

先日、宝満寺の常例法話でお話し下さった西原先生は、
一般的な仏教は、”因”から”果”を説く。
しかし浄土教はまず”果”があり、そこから”因”を説く

という言い方をされていました。

一般的には、何かをしたら(因)それに応じて結果がある(果)、という考え方をします。
でも浄土真宗では最初に「果」である「死後の世界」つまり「お浄土」を示します。

浄土真宗では、かなりおおざっぱですが、

阿弥陀如来は生きとし生けるものすべてを、間違いなく浄土に救い摂る」という願いを、わたしの為にたててくれている。

お浄土は間違いなくあるんだから死んだ後のことはつべこべ悩まずに、阿弥陀如来におまかせしとけ!

死んだ後のことを考えなくてもいいし、死んだ後のことを考えるのは無意味だよ!
生きている今を精一杯生きようよ!

ということ、つまり、

「死んでからのことを考えるのではなく、私が生きているたった今、この瞬間を、どのように生きるか・過ごすか、そして私自身が死ぬまでの時間をどのように生きるか・過ごすか、のほうがよっぽど重要だし、意味があることですよ。」

と説いているんじゃないかと思うんです。

死後の世界(後生)のことに悩む必要が無ければ、生きている間(今生)のことに集中できる。
後は自分の人生を歩めばいい。やりたいこと、やるべきことをやればいい。
もちろん、阿弥陀さまへの感謝の気持ちは忘れずに。(称名報恩)
えっやりたいこと、やるべきことがわからない?
阿弥陀さまは死んだ後の面倒は見てくれますが、生きている間の面倒は見てくれません。
それこそ間違った意味での「他力本願」になっちゃいます。
自分の人生なんですから、自分でなんとかするしかありません。
ただ進むべき方向はおのずと確定していると思います。
どんな仕事をしてようが、裕福だろうが、貧乏だろうが、
仏さまの大地にしっかりと根ざした確固たるよりどころを得て歩むお念仏の人生です。
そして、どんな人生を送ろうが、成功しようが失敗しようが、ぼけて死のうが、のたれ死のうが、死んだ後は必ず!お浄土に救い摂ってくれます。救い摂らざるにはいられない仏なんです。

 

問い)「お浄土ってあるんですか?」
この質問は
問い)「死後の世界ってあるんですか?」
と同義です。

あるご住職はこう答えたそうです。
わしゃ往ったことないからそんなこと知らん!
きっとこのご住職にとって死んだらお浄土に往くのが当たり前だったんでしょう。
「お浄土」すなわち「死後の世界」、「ある」とも「ない」とも答えない。
考えても無意味な、考えても永遠に答えの出せない死んだ後のことなんてどうでもよかったんでしょう。
親鸞聖人のおしえを知識・学問(教学)としてではなく、自らの人生に活かされ実践されているこのご住職を、僕は、信心獲得されたすばらしい真の念仏者だと思います。

僕はこの問いに、このご住職のように答えられるか、いまだ自信はありません・・・。
きっといろいろ理屈をこねちゃいそうな気がする僕がいます・・・。
(続く)

  1. 浄土は苦しみの無い世界?
  2. そもそも浄土ってあるの? ←このページ
  3. 賢者?愚者?
  4. お浄土までの距離は?

1、浄土は苦しみの無い世界?

お浄土はよく、金とか銀とか瑠璃(るり=ラピスラズリ)などの宝石で荘厳され、
「大経(仏説無量寿経)」では「安楽」、
「阿弥陀経」では「極楽」すなわち「楽しみ極まりない世界」という書き方がされています。

現在、中央仏教学院長であります「白川晴顕(しらかわはるあき)」先生が書かれた
親鸞聖人と超常識の教え(永田文昌堂)』という本の中で、白川先生の師である「村上速水(むらかみそくすい)」先生が、お浄土について述べられたことばが書かれています。

お経の上には、浄土のことを「安楽」とか「極楽」と表現されている。しかし、その本来の性質は、決して私たちが考えるような安らかで楽しみが多いというような性質ではない。
「安楽」「極楽」に対して言葉を当てはめれば、「非苦非楽(ひくひらく)」、すなわち苦しみに非(あら)ず、楽しみに非(あら)ずという性質である。
したがって、このような浄土は、私たちが心で思うこともできないために不可思議であり、
心で思うことができないということは、それを口で説くこともできないために不可説である。
これが本来の浄土の性質である。
しかし、そういう浄土であれば、私たちにその存在を知ってもらえない。
そこで、本来不可説なものを私たち凡夫の感情に合わせて表現されているのがお経の説示である。

そして白川先生はこう書かれています。※若干略しています。

私たちが生きているときに、浄土の存在を考えていく場合、(略)
その時私たちはどうしても、私自身のものの見方で浄土を考えようとします。
しかし、本来の浄土は決して私たちの欲望の延長上に存在する世界ではない・・・(略)

白川先生のおっしゃるとおり、
私自身が生きている時に、「お浄土」の存在を確かめておくこと!
とても大切だと思います。
「死ねば(お浄土に往けば)楽になれるんですか・・・?」
「死ねば苦しみのないお浄土に往けるのですか・・・?」
という安易な考えの方に応えるためにも。
(続く)

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