落ち葉掃除でさとりをひらく

落ち葉掃き

きりがない・・・。

今日は一日落ち葉掃除をしていました。
掃いても掃いても、掃いてるそばからまた落ち葉が落ちてきて、きりが無いので、
いろいろ考え事をしながらなんとなくこなしていました。

ふと、阿弥陀経にでてきていた落ち葉掃きだったか掃除をしながら”さとり”をひらいたという
お釈迦様のお弟子さんの話を思い出しました。※

「落ち葉の掃き掃除で”さとり”がひらけるなら、落ち葉掃除も悪くないかな?」
なんて考えながら掃除していました。

汗だくになり、手が痛くなり、腰が痛くなり、蚊に刺され、
一日で嫌(イヤ)になりました。

どうやら僕には”さとり”はひらけそうもないようです。

「阿弥陀さまにまかせるしかないな」とあらためて思わせていただいた一日でした。

※話の内容はこのあたりでさがしてみてください。

しあわせはいつも自分のこころがきめる

宝満寺掲示板2012年8月

宝満寺掲示板2012年8月

しあわせはいつも自分のこころがきめる
(相田みつを)

8月の宝満寺の掲示板のことばです。僕が選びました。
法務員2人が毎月交代で、ことばを選んで書いています。

よく「しあわせを求める」なんて言い方をします。
でも「しあわせ」って「求めるもの」じゃないような気がします。
仏教では「求めること」ということは「欲望」。
求めているうちは、求めても、求めても、きりがありません。

「しあわせ」って、「いただくもの」「気づかせていただくもの」そんな気がします。

同じ出来事を経験しても、その受け止め方、感じ方は人それぞれです。
以前、掲示板に、

人生における苦しみはすべて如来のはげましである
(曽我量深 師)

ということばを選んだことがありました。このことばを、
「仏さまがわたしの(目覚めの)ために苦しみを与えてくれている」
と味あわせていただきますと、
実はもうたった今、すでに、
「仏さまはわたしにたくさんのしあわせ””与えてくれている」
と思うんです。
「しあわせ」と思えないのは、本当はもうすでに届いている「しあわせ」に、
気付けていないだけのような気がするんです。
「苦しみを如来のはげまし」と受け取れるこころにしあわせはある、
そんな風に思うんです。

そしてたった今ここに、「自分が考えるしあわせ」を追い求めざるにはいられない僕がいます。
「しあわせになるにはまず結婚することダ!」と考えている独身の僕がいます・・・。
友人達の例を見る限り、結婚したらしたで、苦労するのは目に見えているのですが、
それでも、求めざるにはいられない凡夫の僕がいます・・・。

最後に僕の一番好きな親鸞聖人のご和讃を一句。
このブログの名前でもあります。葬儀のときにも必ずよむご和讃です。

本願力(ほんがんりき)にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし

(高僧和讃 注釈版580頁)

浄土真宗的「無記の問い」

3年ほど前、私が京都の中央仏教学院(以後略して”中仏”と呼びます)という浄土真宗の専門学校に通っていた時、ふと

亡くなった赤ちゃんは、お浄土に往けるのか?

という疑問が沸いた時がありました。赤ちゃん
浄土真宗の教義に詳しい方ならご周知のとおり、

信心正因(しんじんしょういん)」といって、

「往生浄土」の「因」は「信心」であります。
※詳しい説明はあえて避けます。
赤ちゃん(0歳~1歳位でしょうか?)は、お念仏はもちろんできないでしょうし、ましてや信心をいただいているとはどうしても思えませんでしたから。

そこで、当時中仏のご講師の一人だった、
”新門さま”(※浄土真宗本願寺派時期ご門主です)にこの質問をぶつけてみました。

新門さまは少し悩まれたあと、

その質問は何か役にたつのかな?中仏を卒業するまで、考えてみるといいよ。

と言われ去っていかれました。
当時の私は、なんだ答えられないのか、と明確な回答を得られなかったことに、かなり不満でした。

しかし今考えてみますと、この質問は、あきらかにおかしな質問です。

まず、「仏教」そして「浄土真宗」の「おしえ」は、この私自身以外の誰のための教えでもない、という事です。
仏教は「私が」目覚めるためのおしえです。
そして浄土真宗は「この私自身」が、信心をいただき、お念仏申しながら、目覚めさせていただくおしえです。
よって、「亡くなった赤ちゃん」という私にとっての「他人」の信仰についてどうこう言うのはナンセンス(無意味)です。
「赤ちゃん」を「キリスト教を信じている人」「となりのあの奥さん」とかに置き換えてみるとわかりやすいかもしれません。

そしてもうひとつ、この質問のおかしな点は、「~が、お浄土に往けるのか?」と、「お浄土」という存在をはじめから肯定して(認めて)質問している点です。
この質問に、「はい」にしろ「いいえ」にしろ答えた時点で、「お浄土」という存在を認めることになります。
この質問を「浄土を認めていない人」がすることや、この質問に「浄土を認めていない人」が答えることは、その質問をした時点、その質問に答えた時点で、「浄土の存在を認めたことになり、矛盾していることがわかります。
※「無記の問い」とか「無記」という単語でググるとインターネットで検索すると、詳しい説明のページがでてくると思います。

以上のことから推察するに、上記の質問に対し、新門さまは、答えられなかったのではなく、あえて答えなかったんではないでしょうか。

ここで、私(僕)に赤ちゃんがいて、不幸にしてその我が子を亡くした場合のことを想像してみます。※いまだ独身ですが妄想してみます(笑)

もし、私がキリスト教信者だったならば、我が子はきっと天国に行ったと思うでしょう。
私にはそもそも「お浄土」という概念が無いでしょうから。

もし、私が我が子(赤ちゃん)の死をとおしても、「さびしい」「かなしい」という感情で終わってしまう私だったとしたら、何も得るものがなかったなら、苦しみがつのるばかりで、「我が子がお浄土に往った」と言われたところでとても信じられてなかったでしょう。

そして、もし愛しい我が子(赤ちゃん)の死をとおして、私がいのちの尊さいのちの無常さ、に気づかせていただくことができたのであれば、間違いなく我が子は私にとっての「仏」であり、私からすれば他の人が何と言おうが、我が子すなわち「赤ちゃん」はお浄土に往ったことになります。

質問したその当人の信仰とか心持ち?次第で答えが変わってくる問い。
仏教的に言えば「空(くう)」でしょうか?

「(我が家の)右隣のお宅の奥さんは幸せでしょうか?」
という質問を、(我が家の)左隣の奥さんにしているのと同じことです。
この質問がいかに無意味かわかるかと思います。

信心正因(しんじんしょういん)

の「信心」は、

赤ちゃんの「信心」じゃありません。私自身の「信心」です

質問に答える時には慎重に・・・。
おかしな質問に答えると、答えも必ずおかしくなります。
「答えないこと」もときにはまた答えです。

ちょっと遅い盆休み

銚子の宝満寺さんでの法務はお盆参りをもって、いったんひと区切りつきましたので、
ちょっと遅い盆休みということで、休みを4日ほどいただきました。(20日位ぶりの休み!)
そこで、16日の夜、銚子を出発し、実家(高井寺)のある長野県高山村に帰ってきました。

海に囲まれている銚子から一転、山に囲まれている長野へ来たからでしょうか、
長野に住んでいる間はごく当たり前で見向きもしなかったお寺からの山々の景色が、
とてもすばらしく思え、思わず感動してしまいました。

また、17日の夜、長野の友人K君と久しぶりに食事に行きました。
この友人K君は、私がまだ20代前半、長野に住んでいた頃に勤めていた会社の同僚でした。
同い年ということもあって仲良くさせていただいてまして、それ以来の長いつきあいです。
実は昨年K君は、糖尿病性の目の病気で目の手術をしました。
状態は快方に向かいつつも視力が現在0.1以下ということで、まだ完全には戻ってないそうです。そのK君が食事の際に笑いながら何気なく、

「昔は視力2.0で見えるのが当たり前だったんだけどな・・・」

と言ったのが印象に残りました。

ふと、

「死は必然なり、生はおどろきなり」

という言葉をどこかで見たのを思い出しました。

「当たり前のことって、決して当たり前じゃなくむしろ驚くべきこと。」

おかげさまで、実りある休暇を過ごさせていただきました。

お盆参り終了

昨日15日をもって寳満寺(宝満寺)さんのお盆参りが終了しました。
今年は関東・関西・九州方面から9名の僧侶の方々がお手伝いに来てくださいました。
(※なんと内4名が、「うら若き女性の僧侶」!!)
住職と私を含めた常勤法務員2人をあわせた合計11名体制で、
寳満寺さんのほぼすべてのご門徒さん宅を訪問させていただきました。

「暑いから」と冷えた麦茶をふるまってくださったご門徒さん、
「みんな冷たいお茶ばっかりだろ?」と熱いお茶をふるまってくださったご門徒さん、
「忙しいからお茶飲んでく暇ないだろ?」と缶のお茶を袋に入れて持たせてくださったご門徒さん、
何時にくるかわからない坊さんを朝から待ち続けてくださって、
夕方近くになって訪問したにもかかわらず「笑顔」で迎えてくださったご門徒さん。

銚子で日々「お育ていただいているな」とあらためて気づかせていただいたお盆でした。

打ち上げは犬吠にある「太陽の里」にて。

関係者のみなさま並びにご門徒のみなさま、
ありがとうございました。

「打ち上げ」は犬吠の「太陽の里」にて

「打ち上げ」は犬吠の「太陽の里」にて

お盆のいわれ(餓鬼道に落ちるのは?)

お盆は正しくは「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といいいます。
「盂蘭盆会」というのは「盂蘭盆経」というお経に説かれた物語に基づいています。

お釈迦様のお弟子に目蓮という方がいました。目蓮尊者と呼んでいます。
目蓮は心のやさしい方で、亡くなった母の事が忘れられず、いつも育ててくれた恩を感謝していました。
ある日、目蓮は、その亡くなった母がどこに行っているのか神通力で探してみました。
神通力というのは目に見えないところを見通せる力のことです。

そしたら餓鬼道に墜ちて、飲まず食わずで皮と骨ばかりになって苦しんでいるのを発見しました。
餓鬼道というのは、むさぼりの心や行為をした人が死んで生まれ変わる世界とされる、
地獄みたいな、ところだと思ってください。

目連は悲しんで、食べ物を、亡き母のもとへそれを持って行きました。
母は食べようとしますが、口に入れる前に燃えてしまい、食べる事ができません。

目蓮はさらに神通力でその母の餓鬼道に墜ちなければならない理由を知ろうとしました。
そこには、生前目蓮の知らなかった母の一面がありました。

母は目蓮にこそ、この上もなくやさしい人でしたが、他人に対しては、ものをとりこむ一方で、施したり、恵むという事を一切しない人でした。

つまり目蓮を育てるため、目蓮を食べさせたいがために、母親が餓鬼道に堕ちたのだと知った目連は、お釈迦様になんとか自分の母親を救えないものかと、泣きながら尋ねました。

するとお釈迦様は、修行僧達の修行が7月15日に終わるので、この7月15日に、お釈迦様のおられる塔にお供物を盆にもってささげて、すべての修行僧達に、ごちそうをふるまいました。

するとその結果、目連尊者の母親は餓鬼道から救われたそうです。

それを知った修行僧達は大いに喜び、歓喜の踊りを踊ったということです。
この踊りが「盆踊り」の始まりだといわれています。
それ以来、7月15日が先祖を偲ぶ日として定着していったようです。

以上がお盆のいわれとなります。

そして実は、「盂蘭盆」という言葉はもともと古代インドの言葉なんですが、
さかさま」という意味があるそうです。

ここで考えてみますと、
目蓮は、母親が我が子かわいさに、私(目蓮)(だけ)を食べさせたいがために餓鬼道に落ちたことを知りました。
ではその当の目蓮は・・・、
実は、その当の目蓮でさえ、「『母親(だけ)』をすくえないものか」とお釈迦さまに泣きながら頼んでいます。

このことは、目蓮自身も母親と同じ餓鬼道に墜ちる身であるということを教えてくれています。

「母親が餓鬼道に落ちた理由」を目の当たりにしながら、
目蓮はやはり、餓鬼道に落ちた全てのものではなく、母親(だけを)を救おうとしていたのです。

これは、私自身にも当てはまるのではないでしょうか?

私がお盆の時に偲ぶ・思うのは、せいぜい近しい方だけではないでしょうか?
私の近しい方以外(他人)を偲んだり、思うことはそうないのではないでしょうか?

つまり、私自身は目蓮同様、目蓮の母親同様、どうあがいても餓鬼道に墜ちる身であるということを教えてくれています。

「盂蘭盆会」=「さかさま」

お釈迦さまは、すべての修行僧達にごちそうをふるまう・・・。

う~ん・・・深いと思いませんか・・・?
(※偽経とは言われていますが・・・。)

銚子のお盆の花「みそはぎ」

11日から銚子以外の地域のご門徒さん宅(神栖市~旭市)へのお盆参りがはじまりました。
明日からは本格的に銚子市内のお盆参りがはじまります。

寳満寺(宝満寺)では、普段お墓にお供えするお花?として「松」を寺務所の受付で販売しています。昨日からは、「松」に併せて「みそはぎ」の販売をはじめました。

銚子では、お盆の時期に、お墓やお仏壇に「みそはぎ」をお供えするのが一般的です。

実は、はずかしながら銚子に来る前は「みそはぎ」という花を知りませんでした。
そこで、「みそはぎ」を広辞苑で調べてみると、※ちなみにwikiはこちら

みそ‐はぎ【溝萩】
(禊萩「みそぎはぎ」の意か。ミゾハギとも)ミソハギ科の多年草。日本全土、朝鮮半島に分布。高さ80センチメ-トル。
夏、淡紅紫色6弁の小花を長い花穂に密生。
盂蘭盆会うらぼんえに仏前に供える。
春、若葉を食用。精霊花。ミズカケグサ。
漢名、千屈菜。

との事。

銚子では「真言宗」が、いわゆる圧倒的多数派です。
それゆえに真言宗以外の宗派も少なからずその(密教)影響を受けます。
真言宗智山派公式ページの「お盆の迎え方」というページを見てみると、
「お盆にはみそはぎをお供えする」
と書いてあります。
きっと、真言宗のお盆の迎え方が、銚子全域に広がったのでしょう。

ちなみに、8月11日に神栖市(鹿島よりの神栖市)のご門徒さん宅をお参りさせていただいた際質問してみたんですが、お盆に「みそはぎ」をお供えする慣習は特に無いそうです。
そして今日12日は旭市周辺をお参りさせていただきましたが、
旭市のご門徒さんほぼ全てのお宅で、お盆には「みそはぎ」をお供えするとお答えいただきました。

浄土真宗においては、供花の種類に特にこれという決まりはありませんが、
毒のある花」・「トゲのある花」・「悪臭のする花
そして「悲しみの時の赤い花」は避けます。
(※よって「みそはぎ」でもOKです。)

参考までに「みそはぎ」の名前の由来である(可能性の高い)「禊(みそぎ)」に関してですが、
広辞苑によると、

みそぎ【禊】
(ミソソギ(身滌)の約か)
①身に罪または穢れのある時や重大な神事などに従う前に、川や海で身を洗い清めること。万葉集4「飛鳥の川に―しに行く」
②禊祓(みそぎはらえの略。)

とあります。
どうやら「神道」の用語だそうです。
(※個人的には「穢れ(けがれ)」という考え方はいまいち好きになれません・・・。)
勉強になりました・・・。

みそはぎ

寳満寺(宝満寺)「みそはぎ」250円!

帰れるふるさと

テレビのニュースによると、今日明日くらいから、ふるさとへ帰る人達の帰省ラッシュがはじまるそうです。

今朝、寳満寺さんの本堂の中の掃除をしていると、10匹近くのスズメバチが死んでいるのを見つけました。
実は七日法事が始まる前、7月の後半位に、本堂近くにあったスズメバチの巣を駆除していました。
きっと帰る場所を失ったスズメバチ達が、帰る場所を探して、本堂に迷い込んだあげく、力尽きて死んでいったんだと思います。

「帰れるふるさと」があるって、すばらしいことだと、ふと思った今日この頃です・・・。

普段私達は、自発的に「生きている」「私の『いのち』は私のもの」と思いがちですが、
仏教では「私のいのち」は、「さまざまなご縁によって生かされている『いのち』」です。
私は「いのち」をいただいているわけです。

子供の頃、
「死んだらどうなるんだろう・・・」
なんて事を考えたりしたことがありました。

「私の身体(からだ)」(つまり「私を構成している物質」)は、さまざまなご縁によって今この瞬間、たまたまこういう姿をいただいておりますが、「死んだとき」すなわち、その「ご縁が尽きたとき」には、「私を構成していた物質」に戻るわけです。
よく「土に帰る」なんて言います。

そして「私のいのち」も「さまざまなご縁によっていただいた『いのち』」と味あわせていただきますと、「そのご縁が尽きたとき」には、無くなるわけでもなく、どこかへ行くわけでもなく、「私の身体」同様、ただ元に戻るだけです。

私を私たらしめてくださった「いのちの世界」「いのちのふるさと」へと戻るだけです。
だから、決して「いのち」が無くなるわけではないと思うんです。

7月の寳満寺の常例法話に来て下さった純心寺の曽我先生が「いのち」を「海の泡」に例えられてお話くださいました。

海の水が岩にうちつけると泡ができます。
「すぐ消えてしまう泡」「しばらく保つ泡」。いろいろな「泡」があるけれども、
その「泡」は無くなるわけではない。ただ大いなる海にまた還るだけです。

浄土真宗では、その「大いなる海」「『いのち』が還る『いのちのふるさと』」を
「お浄土」
とよんでいます。
だから、「お浄土に還らせていただく」(還浄)という言い方をします。

「帰れるふるさと」があるって、すばらしいことだと、思った今日この頃でした・・・。
南無阿弥陀仏。

東京のお盆はなぜ7月?

銚子ではお盆といいますと、8月13日~15日くらいの間をさすと思います。
私の実家の長野県でも同じです。
ただ東京方面では、お盆といいますと一月(ひとつき)早い7月です。
私の亡くなった祖父が、よく東京のお寺に、出稼ぎに!?行っていたのを思い出します。

なんで東京では、7月お盆なのか、調べてみたんですが、諸説あるみたいです。

もともとお盆というのは、旧暦7月15日頃行われていました。
明治時代になって新暦が採用されたときに、
旧暦の7月15日というのは新暦の8月中なんですが、
東京の人、江戸っ子は8月まで待ちきれなかったそうです。
だから、新暦でも7月にお盆をおこなったという説が有力だそうです。

じゃあ何故他の地方は東京にならって7月をお盆にしなかったのか?
理由は簡単で7月中は、農作業が忙しかったからだそうです。

まあ、一月(ひとつき)違うと、東京にいる親戚と地方にいる親戚があつまりやすくて都合が良かったりで、今のかたちで定着したそうです。
お寺の世界でも、東京のお坊さんと地方のお坊さんの間ででお手伝いがしやすいですしね。

今日法務が終わり、帰りがけに寳満寺の坊守さんに「すいか」をいただきました。
8月と言えばやはり、SUIKA!
晩ご飯においしくいただきました。有り難うございました。

すいか

七日法事のお供物のすいか?

七日法事準備

銚子にあるお寺では宗派問わず、新盆にあたられている方が七日間お寺にお参りする、

七日法事(なのかほうじ)

という行事があります。
ただ七日間きっちりやるお寺さんは寳満寺ともう一件のお寺さんだけ、と聞いた事があります。
他のお寺さんは、二日とか一日だけとか短縮してやっている所が多いとの事です。
他の地方では聞いたことがないので、おそらく銚子だけの行事かと思われます。

今日は、明日に控えた「七日法事」の準備。

掃除とお荘厳。

いや~暑かった・・・。←最近はこればっか(笑)

宝満寺七日法事 お荘厳完成

宝満寺七日法事 お荘厳完成

打敷(うちしき)を新しくして完成。
下の写真は、尊前を拡大した写真。
木の枠?に、今年亡くなられた方の法名を貼って七日間おつとめします。

宝満寺七日法事 尊前 拡大写真

おまけ。自分が生けました。↓

宝満寺七日法事荘厳

宝満寺七日法事 花