お釈迦様が悟られたのは、「縁起の法」です。
例をあげますと、仏教での「いのち」は、縁によって生かされている「いのち」という事です。
「縁起の法」と「空(くう)」の思想とは密接な関係があります。というより実は同じような事だったりします。
※下記から中仏在学中にまとめたレポート。
投稿者「tosizoo」のアーカイブ
「仏(ぶつ)」とは?
棚飾りの確認で、とあるご門徒さんのお宅にお伺いした時のこと。
棚の件でいろいろ説明させていただいていた時に、
「仏って意味がよくわからん!」
みたいな事を言われた方がおりました。
確かに言われてみれば、一般的には「死んだ人」という意味で使われているように思います。
その意味で、
「亡くなられた方はお浄土に生まれ『仏』となられたので~・・・」
といくら説明してみても、話が食い違うばかりです。
「仏」という字、昔は「亻(にんべん)」に「弗」と書いた「佛」という字を使っていました。
調べてみると「弗」は「あらず」という意味で、「佛」とは「人にあらず」ということをあらわしていたそうです。
「仏」は、もともとサンスクリット語(古代インドの言葉)の「ブッダ」の音を
漢字で「仏陀(ブッダ)」と当てたもので、本来は「目覚める」という意味です。
お釈迦さま(=釈迦牟尼世尊=釈尊)は三十五歳の時に菩提樹のもとで悟りをひらかれ、
「真理の法」(縁起の法)に目覚められました。
そのとき、お釈迦さまは、「仏」すなわち「目覚めたもの(覚者)」となられました。
つまり、
「仏」とは「真理に目覚めたもの」=「悟りをひらいたもの」
のことを言います。
決して「仏教」は「死ぬための教え」ではありません!
「目覚めるための教え」です。
「日々をどう生きるか」「どう生きるべきか」ということが仏教の教えです。
平成27年5月10日追記:
自分も今まであまり意識しないで、仏(ぶつ)と仏(ほとけ)を使ってきました。
今後、注意して使っていかなきゃな・・・なんて思います。
七日法事(新盆法事)法話②
今日でようやく七日法事が終了。
今年は毎日たくさんのご門徒さんがお参りくださいました。
暑い中、早起きをしてお参りくださいましたご門徒さん達には本当に頭が下がります。
七日法事の六日目の昨日、自分が法話をする番。
話す内容が直前までまとまらず・・・。
早起きしてお参りくださったご門徒さんに対し、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。今後への反省をこめて、あえて原稿を後悔公開。
「法話とは?」
浄土真宗の伝道は「仏徳讃嘆」「自信教人信」という言葉につくされます
浄土真宗では、法話を聴聞することが大事にされてきました。
法話とは、阿弥陀如来の救いの法を讃嘆することです。
「浄土真宗本願寺派 綜合研究所」
「布教師の先生から教わった事」
下記のどの話題にもさわっていない話は法話ではない。
- 本願
- 念仏
- 浄土
- 成仏
東京のお盆はなぜ7月?
銚子ではお盆といいますと、8月13日~15日くらいの間をさすと思います。
私の実家の長野県でも同じです。
ただ東京方面では、お盆といいますと一月(ひとつき)早い7月です。
私の亡くなった祖父が、よく東京のお寺に、出稼ぎに!?行っていたのを思い出します。
なんで東京では、7月お盆なのか、調べてみたんですが、諸説あるみたいです。
もともとお盆というのは、旧暦7月15日頃行われていました。
明治時代になって新暦が採用されたときに、
旧暦の7月15日というのは新暦の8月中なんですが、
東京の人、江戸っ子は8月まで待ちきれなかったそうです。
だから、新暦でも7月にお盆をおこなったという説が有力だそうです。
じゃあ何故他の地方は東京にならって7月をお盆にしなかったのか?
理由は簡単で7月中は、農作業が忙しかったからだそうです。
まあ、一月(ひとつき)違うと、東京にいる親戚と地方にいる親戚があつまりやすくて都合が良かったりで、今のかたちで定着したそうです。
お寺の世界でも、東京のお坊さんと地方のお坊さんの間ででお手伝いがしやすいですしね。
今日法務が終わり、帰りがけに寳満寺の坊守さんに「すいか」をいただきました。
8月と言えばやはり、SUIKA!
晩ご飯においしくいただきました。有り難うございました。
七日法事(新盆法事)法話①
明日は七日法事3日目。
明日、5分~10分くらいの法話の当番にあたってるので、話す予定の法話の原稿。
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七日法事準備
銚子にあるお寺では宗派問わず、新盆にあたられている方が七日間お寺にお参りする、
「七日法事(なのかほうじ)」
という行事があります。
ただ七日間きっちりやるお寺さんは寳満寺ともう一件のお寺さんだけ、と聞いた事があります。
他のお寺さんは、二日とか一日だけとか短縮してやっている所が多いとの事です。
他の地方では聞いたことがないので、おそらく銚子だけの行事かと思われます。
今日は、明日に控えた「七日法事」の準備。
掃除とお荘厳。
いや~暑かった・・・。←最近はこればっか(笑)
打敷(うちしき)を新しくして完成。
下の写真は、尊前を拡大した写真。
木の枠?に、今年亡くなられた方の法名を貼って七日間おつとめします。
おまけ。自分が生けました。↓
新盆の棚かざり
「新盆」
銚子では、「しんぼん」と発音します。全国的に見ると、「にいぼん」「あらぼん」と発音する地方もあるかと思います。
呼び方が地方地方でまちまちなように、新盆の迎え方も地方によってさまざまかと思います。
かつては、地方はそれぞれ独立した”国”のようなものでしたから、各地方で言葉が違ったように(※方言)、新盆の迎え方にも地方で違い・特色があるのは当然かと思います。
銚子では新盆を迎えるにあたり、自宅に「棚」をかざるのが一般的です。(※新盆棚)
浄土真宗のご法義に詳しい方ならご周知のとおり、浄土真宗では、新盆だから、お盆だからといって、棚をかざることはしません。
寳満寺さんでは、新盆を迎えるにあたり、6月から7月にかけて一軒一軒ご門徒さん宅を訪問し、お寺の新盆の行事等について説明させていただいています。
ここが難しいのですが!?その際、上記の浄土真宗では棚をかざらないことを伝え、あとはご門徒さん自身に、棚をかざるか・かざらないかを選択していただいてます。そして、飾るのであれば出来るだけ簡素にかざっていただくようにお願いしています。
確かにご門徒さんの立場にたってみると、いくら寺が「かざらなくてもOK」といったところで、棚をかざるのが一般的なここ銚子において、故人にご縁のあった方がお参りにきてくださった際、「この家は、新盆なのに棚もかざってない!世間知らずな家だ!」なんて思われなくもありません。
個人的には、銚子においては、この状態がベストだと感じています。
仏教では「『正解』は必ずしもひとつとはかぎらない」と思うからです。
(※浄土真宗も仏教である以上同様だと思います)
とかく現代では「どちらが正しいか?」と正解にこだわってしまう傾向、ものごとの白黒をはっきりさせたがる傾向がありがちですが、仏教の教えは、画一的ではないはずです。
「八万四千の法門」という言葉があります。釈尊は相手に即して教えを説かれました。
その人その人にあった教えを説いたので、教えが八万四千になった、という風に言われています。元来仏教にはいろんな教えがあります。(※このことが色んな宗派がある理由です。)
ここ銚子において、新盆にあたられている浄土真宗のご門徒さんが、
- 「新盆棚を飾る」のも正解
- 「新盆棚を飾らない」のも正解
- 「どっちが正解なのか、よくわからない」のも正解
と思う今日この頃です。
22代ご門主大谷光瑞と大谷探検隊
※中仏在学中書いたレポート。
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お経って一緒によむ?
今日も暑かった・・・。気温30℃オーバー。
午前中は、月忌参りに加え、寺でも法事もあったので、結構ドタバタしてた。
午後は、七日法事、お盆に向けて、エアコンの効いた部屋で内勤タイム。
快適、快適(笑)
とあるご門徒さん宅では、いつも後に座ってくれて、一緒におつとめしてくださる。
おつとめは、「讃仏偈」引き続き「重誓偈」。
ゆっくりおつとめしたので、15分くらい。
やっぱり、一緒におつとめさせていただくのは、妙な?一体感があって、イイ(笑)
銚子では、一緒におつとめしてくださるお宅は、まれ。
他宗の影響が強いためか、「お経は亡き方に上げる」という考えが一般的。
「お経を一緒によむ」という考えは、あまり浸透してない・・・。
浄土真宗で「お経を一緒によむ」のは、
亡き方を偲びつつ、その亡き方をご縁に”私が”仏法を聞き味わうため
です。
ぜひ、勇気を出して!?一緒におつとめしていただければと思います。
お宅を出る際、「銚子名物 かつを角煮」をいただきました。
家に帰ってから、ビールのつまみにおいしくいただきました。
ありがとうございました。
2012年7月常例法話
今日の最高気温は31℃。風がほとんどなかったので、めちゃくちゃ暑く感じた・・・。
そんな中、今日は寳満寺さんの月に一度の常例法話の日。
自分もこの日は毎月楽しみにしていたりします。※おやつもでるしね(笑)
それにしても暑い中お越し頂いたご門徒のみなさんには本当に頭が下がります。
ご講師の先生は、成田市の純心寺の曽我弘章先生でした。
阿弥陀如来と釈迦如来の関係について、わかりやすくお話くださいました。
確か、以前、自分もお参りさせて頂いた際に、ご門徒さんから、
「浄土真宗ではお釈迦さまはご安置されてないけど何でですか?」
なんて質問されたことがありました。
その時自分は、
「お釈迦さまは八万四千の法門と言われるように、教えを説く人に合った、様々な教えを説いた。浄土真宗では、『お釈迦さまの説かれた、阿弥陀如来の本願による救い』を、よりどころとしているので、決してお釈迦さまを軽視している訳ではありませんよ~」
なんて趣旨の話をしたような気がする。
我ながら、答えになっているような、無いような・・・・(汗
先生ご自身がおっしゃっていた、今日のお話の内容は下記。
http://www.kaikyou.net/narita-fukyosho-jyunshinji/2012/post-40.html
先生ありがたいお話ありがとうございました。