以前、布教使(ふきょうし)さんが法話の中で、こんなことを言っていました。
「あなた自身が余命1日」になった状態を想像してみてください。 続きを読む
以前、布教使(ふきょうし)さんが法話の中で、こんなことを言っていました。
「あなた自身が余命1日」になった状態を想像してみてください。 続きを読む
僕は大学の理系の学部に進学しました。
そんなこともあって、考え方が理系的になりがちです。
よく言えば論理的思考、悪く言えば理屈っぽい考えです。(笑) 続きを読む
9月19日から25日までが秋のお彼岸になります。
秋分の日の22日(土)が彼岸の中日(ちゅうにち)になります。
宝満寺でも、たくさんのご門徒さんがお墓参りに来ます。
また、通常の月忌参りに加え、お彼岸のお参りもありますので、
法務もだいぶ忙しくなってきます。
「彼岸」とは、こちらの投稿記事でも書きましたが、
煩悩で汚れきった娑婆世界「此岸(しがん)」に対しての、”彼(か)の岸”
つまり、さとりの世界、浄土の世界を表す言葉です。
そしてこの「お彼岸」の中日(ちゅうにち)は、
春が「春分の日」、秋が「秋分の日」にあたります。
この日は、太陽が、真東からのぼって、真西に沈む日です。
このことから、
”西方”十万億土にあるとされる「極楽浄土」をしのぶ日
として、古来から定着していったんだそうです。
お彼岸中に、ご先祖のお墓参りをしていただき、
「いのちのつながり」を考えていただくのもいいんではないでしょうか?
自分の番
~いのちのバトン~
作 相田みつを
父と母で二人
父と母の両親で四人
そのまた両親で八人
こうして数えてゆくと
十代前で、千二十四人
二十代前では-?
なんと、百万人を超すんです
過去無量の
いのちのバトンを受けついで
いま、ここに
自分の番を生きている
それがあなたのいのちです
それがわたしのいのちです
僕は、普段、色んなことで悩んだり、考え事にふけってしまったりしています。
「如実知見」とは、
ものごとをありのままに、事実を事実として、ものごとの真相を正しく見極めること。
です。
私達は、自分の気持ちを、人にわかってもらいたい、と考えます。
※特に好きな人、愛する人、仲の良い友人には・・・。
だから、自分の気持ちを、わかってもらえないとき、
自分の気持ちに、気付いてもらえないとき、
苦しみます。怒りがこみ上げてきます。
「何でわかってくれないの!?」
でもちょっと冷静に考えてみれば、
僕の気持ちを、他人にわかってもらえるはずがありません。
エスパーじゃないんですから。
察してもらうことはできるのかもしれません・・・が、
僕の気持ちを、他人に完全にわかってもらえるなんて不可能です。
その為に言葉があります。
そしてその言葉にも限界があります。
そして言葉(文章)をもってしても僕の気持ちを完全に伝えるなんて不可能です。
不可能なことを自分で可能だと思い、勝手に悩んでいるだけです。
僕は、僧侶になる前、会社員でした。
営業でした。”ほこり”をもってやっていたつもりです。
突然、内勤に異動という人事通達がきました。
「なんで?」「成績も悪くないはずなのに?」「こんな理不尽が許されるの?」
色々悩みました。考え込みました。
でも、ちょっと冷静に考えてみれば、
そんなことに悩むなんて、全く無駄、無意味なんです。
会社は理不尽なんです。矛盾しているのが会社なんです。
会社ってのは結局、人間の集団ですから。
人間の心は理不尽です。矛盾しています。
時に理屈で動き、時に感情で動き、人の心は絶えず変化し続けます。
人間は、理不尽です。矛盾しています。
だから、
会社は、理不尽です。矛盾しています。
そして、
社会も、理不尽です。矛盾しています。
人間である以上、会社員である以上、社会人である以上、
理不尽なこと、矛盾していること、は当たり前のように経験します。
「なんで?」「なぜ理不尽なの?」「なんで矛盾しているの?」
なんて悩んでも、考えても無駄・無意味だと思うんです。
そういうものだ、と現実を受け入れていくしかない、と思うんです。
その上で、悩んでも意味がある悩みを悩み抜く。
例えば、
「内勤の人達との人間関係を気付くにはどうしたらよいか?」とか、
「内勤の仕事を効率よくこなすにはどうしたらよいか?」とか。
現実に即した悩みの方が、全然いいと思うんです。
その方が同じ悩むにしても、意味があると思うんです。
まあ、えらそうに言ってますが、
それができなかったから、僕は会社を辞めたわけでして・・・。(笑)
頑張るにしても、
可能なこと。不可能なこと、
をしっかり見極めることって大切だと思います。
悩むにしても、
悩んでも意味があること、悩んでも意味がないこと。
しっかり見極めることって大切だと思います。
自分が出来ないことを出来ると思い込み頑張ってしまうと、
苦しみます。当然自分には出来ませんから。
不可能なことを可能だと思い込み、悩んでしまうと、
苦しみます。永久に解決は不可能ですから。
永久に悩み続ける、迷うことになっちゃいます。
仏教を学ぶということは、
ものごとを正しく見極める能力を学ぶ、ということでもある、と思います。
私達は普段、あらゆるものごとを、「私の立場」から考えていきます。
でも、「私の知識」、と思っている知識は、
もともと、両親から、先生から、友人から、他人から、いただいたものです。
「私のいのち」、と思っているいのちは、
もともと、両親から、いただいたものです。
そして、他のいのちをいただくことでのみ生きられるのが私のいのちです。
私達は普段、「自(分)」の「力」で生きていると思っています。
でも別の言い方をすれば、
私達は、「他」の「力」の「おかげで」で生かされている。
とも言えます。
要はあらゆるものごとは、
「おかげさま」
です。
悩んだときに、ちょっと立ち止まって、
「自(分)」の方からだけの見方をしている私がいないか、
「他」の方からの見方を忘れている私がいないか、
確かめてみるのもいいんじゃないかな・・・と思う今日この頃です。
上座部仏教のお釈迦さまは、”人間としての”お釈迦さまです。
「仏」は、お釈迦さま以外あり得ない、と尊敬を込めて、
現在に「仏」が存在することを否定した教えです。
それに対して、
大乗仏教では、現在にも無数の「仏」が存在している、
と説いています。
そして、大乗仏教のお釈迦さまは、神通力を持ち、空を飛ぶ、超人、スーパーマンとして教典に表現されています。もはや人間ではありません。(笑)
実は僕も仏教を学び始めた頃、教典を勉強しはじめた頃、
最初に、この点にひっかかりました。
教典では、お釈迦さまが空を飛んでいるではありませんか!
本当に、大乗仏教を信じて良いのか?と。(笑)
大乗仏教では「三身(さんしん)」と言って、仏のタイプを3つに分けています。
1、法身仏(ほっしんぶつ)
2、報身仏(ほうじんぶつ)
3、応身仏(おうじんぶつ)
大乗仏教で言う「仏(ほとけ)」とは、「法身仏・報身仏・応身仏」です。
言い換えると、
大乗仏教では、
お釈迦さまは、「法身仏(ほっしんぶつ)」の分身として、
人間の姿で真理を説かれた「応身仏(おうじんぶつ)」と考えます。
お釈迦さまは、「仏(ほとけ)」であり、
お釈迦さまは、「法身仏・報身仏・応身仏」です。
つまり、大乗仏教では、お釈迦さまは人間ではないんです。
大乗仏教の「仏(ほとけ)」とは、
「真理」であり、
「如来」であり、
「お釈迦さま」です。
実は、本願寺22代の、大谷光瑞ご門主の時代(明治時代くらい)には、
お釈迦さまが、歴史的人物であるかが、疑われていたみたいです。
でも日本では、大乗仏教の上記の様な考えから、歴史上の人物であろうが、無かろうが、
あまり問題なかったように思います。
それが近代日本に、学問として、様々な初期仏教教典が入ってきて、
「人間のお釈迦さま」という見方が圧倒的になりました。
最初に書いた通り、「人間のお釈迦さま」という認識で、
大乗仏教の経典は、とても信じられるはずがありません。
大乗仏教の経典は、物語形式になっているものが多いです。
文字を文字どおり読むのではなくて、その物語が何をうったえてるのか?何が言いたいのか?という教典の「こころ」を読み取るのが教典を学ぶということだと思います。
信仰は学問であってはいけないな、理屈じゃないな・・・と思う反面、
勉強したての僕がそうだったように、大乗仏教(日本仏教)ばなれが進むのも、
なんとなくわかりそうな気がしちゃう、今日この頃だったりします・・・。
お釈迦さまが生きていた頃はもちろん出家信者と在家信者がいたはずです。
「対機説法」と言われるように、
出家信者に対してはふさわしい修行法を説き
在家信者に対してはふさわしい実践法を説いていたはずです。
お釈迦さまが亡くなると、
出家信者は自分達だけで教団をつくり、出家信者に対して説かれた教えだけをまとめて教典をつくります。
だから初期仏教教典には、在家信者に対する修行法、実践法が書かれていません。
後に、
若者中心の進取派からなる「大衆部」と
長老中心の保守派からなる「上座部」とに分裂がおきます。(根本分裂)
その後、最終的に二十くらいの部派にわかれます。
この流れをくむのが現在の「上座部仏教」です。
一方、在家信者達は、
お釈迦さまの遺骨を祀(まつ)った「ストゥーパ(仏塔)」を作り礼拝しました。
ちなみに、お釈迦さまの遺骨を荼毘(だび)に付したときできた遺骨を
「舎利(しゃり)」と言います。
※寿司屋の「シャリ」の語源です。
在家信者達の仏塔信仰がさかんになる中、
出家信者たちの作る教団は、学問仏教、難解を極める哲学的な方向になっていきました。
そして、在家信者達の中からお釈迦様の根本精神に立ち返ろうという大乗仏教運動が起こっていきます。
その大乗仏教の修行法・修行論が
「波羅蜜(はらみつ)」と呼ばれています。
「迷いの此岸(しがん)から悟りの彼岸(ひがん)に渡るための修行法」
という意味です。
この修行法が六種類あるので、
「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と呼ばれています。
※この六波羅蜜を実践する者を「菩薩(ぼさつ)」と呼んでいます。
※十波羅蜜・・・「方便」「願」「力」「智」を加えたもの。
そして重要なことが、
この修行そのものに執着してはならないということです。
これが難しい・・・というか僕は未だによくわかりません。
浄土真宗では、「六波羅蜜」は、その真似ごとのようなものはできても、
「執着しない心」「はからいの心」を持たず行じる”真の”六波羅蜜の実践は、不可能だ、
という立場です。
「六波羅蜜」は「仏」になるための修行法です。
ちなみに上座部で目指すのは、「仏」ではなく「阿羅漢(あらかん)」です。
※阿羅漢・・・修行者が到達できる最高の境地
大乗仏教では、
仏になるという「目的」よりも、その「過程」の重要性、つまり
「仏」を目指して人生を歩み続けていこう!
ということの重要性が説かれているように思います。
「仏」という、人間が到底到達できそうもない境地をともに目指す者同士には、
到達出来た者、到達出来ない者、
エリートとエリートじゃない者、
といった、人に差をつける考えは生まれてきません。
ともに「仏」にはなれない者同士なんですから。
※現実には人と差をつけてしまいたがるのが人間なんでしょうが・・・。
そこに出家者、在家者の区別はありません。
人間として、仏を目指し、仏の智慧を学び、人間として成長していくこと、
それが、日本の仏教が説く、仏教徒の歩む道だと思う、今日この頃です。
生きているということは確実に死に近づくこと。
一歩一歩確実に「死」に向かって歩いている。
「死」がむなしい、無意味なものであるなら、
「死」に近づくにつれ、むなしさ、恐怖感がつのっていくばかり。
もし「死」に意味を見いだすことができたら、
「死」が私が滅んでいくことではなくて、
「死」が、
「人として生きてきた私が新たな場所に往き生まれること」、
「私が先に見送ってきた、亡き愛する者とまた会えること」、
そして
「私が残してきた愛する者のしあわせを願い、見守っていくこと」、
と意味を見いだすことができたら、
「死」は決してむなしく、無意味なものでなくなるはず。
そして意味を見いだすことが出来たとき、
「私の死んで行く場所」が、
「むなしく無意味な恐怖の場所」
から
「私の還(かえ)るべき”ふるさと”」に変わる。
私のこころに、「還(かえ)ることのできる”ふるさと”」ができる。
私のこころに、よりどころを得た安心感が生まれてくる。
このとき「救い」は完成する。
後は人としての一生を精一杯生きるだけ。
その日その日、目の前のやるべきことを精一杯やっていくだけ。
朝起きて「今日も朝目が覚めたこと」に「ありがとう」。
夜寝る前「今日一日生かされたこと」に「ありがとう」。
一日一日精一杯生きていくだけ。
ひたすら目の前の現実を見て、ひたすら現実を受け入れて生きていくだけ。
ただただ現実を生きる。
世間にはびこる、変なおまじないや変な宗教に逃げることなく。
それでも現実から逃げたくなったら、
仏さまにちょっと甘えてみる。
「そのままでいんだよ。」
「逃げたくなるのが人なんだよ。」
ありのままの私を受け入れてくれる。
そしてまたひたすら現実を生きる。
成功するもよし。失敗するもよし。
仏さまの目からみれば、人生に成功も失敗もない。
そして、縁尽きて人生が終わったら、
あとはおまかせするだけ。
ふるさとに還るだけ。
(ひとりごと おしまい)
今日寳満寺の法務は休みでした。
部屋の掃除。
洗濯。
買い物。
サーカー観戦。※勝ちましたね♪
精一杯休みました。(笑)
お盆前に、月忌参りでお伺いしたお宅のおばあちゃんと野良ネコの話で盛り上がったことがありました。ガリガリにやせた子ネコが庭に迷い込んできたので、えさをあげてたら、なついてしまったそうです。
9月になり、先日またそのおばあちゃんの家に行き、
「子ネコまだ来てますか?」とあいさつがてら声をかけたら、
さびしそうな顔をして、ことのいきさつを話してくれました。
そのおばあちゃんによると
しばらく子ネコにえさをあげてたらしいんですが、
近所から、野良ネコにえさをやるなっ!ていうクレームがきたそうです。
「よかれと思ってえさをやってたけど、まさか、よそさまに迷惑をかけてるとは全く思わなかった。良い勉強になった。」
とのことでした。
私たちは普段意識せずとも必ず他人に迷惑をかけながら生きています。
私が「~の試験に受かった」ということは、
どこかの誰かが私のせいで「試験に落ちた」ということでもあります。
私達は生きているだけで、他人に迷惑をかけています。
だから、私も他人から受ける迷惑を堪え忍びましょう
ということが仏教でいう忍辱(にんにく)です。
かといって全ての迷惑を堪え忍ぶ、泣き寝入りする、ということでは無いように思います。
何を我慢すべきで、何を我慢すべきではないか、
その判断にあたっては、仏教の「智慧(ちえ)」のみせどころだと思います。
※「智慧」→物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。「知恵」→Wikipedia
その後、おばあちゃんは子ネコにえさをあげてないそうです。
ただ、
「またガリガリにやせた状態で来たら、えさあげちゃうかもね、
見殺しには出来ないよね。」
と笑みをうかべながら言ってました。
「私は悪いこと何もしてないのに」
「私は正しいことをしてるのに」
と思うこころに、
「他人から受ける迷惑を我慢できるこころ」
はありません。
ふとこんな言葉が頭をよぎりました。
善人ばかりの世の中になりつつありそうで、ちょっと怖くなったりする、今日この頃だったりします。もちろん、善人だと思ってしまう僕自身も含めてです。
※野良猫へのえさやりは全国的に(都市部?)問題になっているみたいです。
えさやり肯定派と否定派の方々がいて、どうやら、否定派が優勢?みたいです。
関連リンク
※食べる「ニンニク」は仏教のこの「忍辱(にんにく)」が語源だそうです。
「戒」のことを全然知らなかった浄土真宗僧侶の僕がいましたので、
「戒」についてちょっと調べてみました。
大乗仏教における基本的な「戒(かい)」が5つあります。
「五戒(ごかい)」と言われています。
「五戒」は仏教徒であれば守るべき「いましめ」です。
実は「いましめ」の名のとおり、やぶったからといって特に罰則はありません。(大乗仏教)
※初期仏教(上座部)では厳守!。
「戒律(かいりつ)」は罰則規定(律)がある。(出家修行者)
「戒」は古代インドの言葉(サンスクリット語)で「シーラ」といい、
「習慣」とか「習慣性」という意味だそうです。
「~するな」
ではなく、
「~しないような習慣を身につけよう」
というのが戒です。
つまり、仏教徒としての道を歩む、ということは、
私が
と自らを戒め、こういう習慣を身につけて生きていこう、という志を持ち、
生きていくことです。
今の日本で生きていく、生活していくにあたり、
「戒」を完全に守りきることは不可能だと思います。
時には、生き物を殺さざるをえないこともあります。
時には、うそをつかざるをえないこともあります。
時には?酒を飲むときもあるでしょう。
こういう状況のときに、決して開き直るんじゃなくて、
私は「戒」をやぶっているんだ、という自覚を持つことが大切なように思います。
「戒」をやぶったときに、
「自分は弱い人間なんだなぁ」と自覚することが大切なように思います。
自分が弱い人間だ、ということに気付けたときにはじめて、
他人の弱さも許せるこころが持てるんじゃないかなと思います。
浄土真宗は「他力のおしえ」です。事実上「無戒」です。
ただ、浄土真宗が仏教を名のっている以上、仏教徒である以上、
自らを戒め、志をもち生活していくことは、とても大事だし、必要なことだと思います。
開き直っちゃいけないな、と思う今日この頃です。